今でこそ日韓は良きライバルとして切磋琢磨しているが、Jリーグ誕生以前は韓国が戦績で圧倒的にリードしていた。特に、アウェーは日本にとって鬼門だった。そんな「負の歴史」にピリオドを打ったのが1982年にインド・ニューデリーで行われたアジア競技大会だ。グループリーグ初戦で難敵イランを木村和司のゴールで1-0と下した日本は、第3戦で韓国と激突。先制点を許したものの、原博実(現Jリーグ副チェアマン)のゴールで同点に追いつくと、風間八宏(現名古屋監督)のドリブル突破から岡田武史(元日本代表監督)のロングシュートで2-1の逆転勝利を収めた。

 これが国外での韓国戦初勝利で、グループリーグで敗退した韓国の金正男監督は日本戦の敗北により更迭される。しかし金監督は1985年のメキシコW杯予選決勝で森監督に雪辱を果たしており、両者の不思議な縁を感じる。

 そして、日本が韓国の地で初勝利を挙げたのが、1984年の第12回日韓定期戦だった。ソウル五輪のメインスタジアムである蚕室のこけら落としとして行われた試合。韓国は崔淳鎬ら若手主体のメンバーだったが、日本は木村の直接FKと、原が頭で落としたボールを水沼貴史が鮮やかなボレーで決めて2-1の勝利を収める。これが記念すべき敵地での初勝利だった。

 その後もメキシコW杯予選やドーハの悲劇、ロンドン五輪3位決定戦など、さまざまなドラマを生み出してきた日韓戦。2015年の東アジアカップまで両国は77回対戦し、日本の14勝23分け40敗といまだリードを許しているが、93年のJリーグ発足以降は日本の7勝10分け(PK戦は3勝1敗)7敗と互角の勝負を演じている。

 これは個人的な印象ではあるが、1990年代の韓国はたとえ日本に負けたとしても「上から目線」だったような気がする。1997年のフランスW杯予選では、早々と予選突破を決めたレッドデビルズ(韓国サポーター)がホームの試合で日本に「一緒にW杯へ行こう」という横断幕を掲げていた。

 しかし両国の政治的な対立も相まって、2011年のアジアカップ準決勝では奇誠庸がPKからゴールを決めるとテレビカメラに向かって日本人を侮辱する「猿」の物まねをした。2012年のロンドン五輪3位決定戦では、試合後に朴鍾佑が太極旗と一緒に「独島(竹島)は我々の領土」とハングルで書かれたメッセージを掲げ、IOC(国際オリンピック委員会)とFIFA(国際サッカー連盟)からペナルティーを受けた。

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