2011年のアジアカップ準決勝では日本が韓国をPKで下した(写真・Getty images)
2011年のアジアカップ準決勝では日本が韓国をPKで下した(写真・Getty images)
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 サッカーのE‐1選手権(旧東アジア選手権)はあす16日に最終日を迎える。2連勝で首位の日本は、1勝1分けの韓国と対戦。首位の日本は勝つか引き分ければ、前身大会を含めて2大会ぶり2度目の優勝が決まり、韓国は勝てば逆転で2大会連続4度目の優勝となる。そんな日韓の激闘史を振り返ってみた。

 両国の激突で日本にとって忘れられないのが1967年のメキシコ五輪アジア地区予選だ。日本開催のセントラル方式で行われた大会には韓国、台湾、フィリピン、南ベトナム、レバノンの6カ国が参加。1回戦総当たりのリーグで、五輪には1チームしか行けないレギュレーションだった。

 日韓両国とも3戦全勝で迎えた直接対決は、前半で日本が宮本輝紀と杉山隆一のゴールで2-0とリードしたものの、後半に2点を返され同点に追いつかれる。エースの釜本邦茂が決めて再び勝ち越したが、粘る韓国も追いつき3-3で試合はタイムアップを迎えようとしていた。

 韓国はラストプレーで3点目を決めた金基福が30メートルのロングシュートを放つ。セービングしたGK横山謙三の手も届かず頭上を越えたシュートは、クロスバーを直撃したものの、ゴールに吸い込まれることはなかった。

 そして同勝ち点で迎えた最終戦、韓国の相手は日本が15-0で圧勝したフィリピン。大量点の欲しい韓国は「18点を取る」と公言したものの、これがフィリピンのプライドを傷つけた。FWひとりを残して全員がペナルティーエリアを固め、韓国の猛攻を5点でしのいだ。この結果、日本は得失点差で韓国を上回り、メキシコ五輪でアジア初の銅メダルにつなげたのだった。

 日韓両国が強化のために定期戦を開催したのは1972年のこと。ホーム&アウェーで1991年まで15回続いた大会は、日本の3勝2分け10敗で幕を閉じた。この大会で忘れられないのが1974年に国立競技場で開催された第3回大会だ。吉村大志郎(ネルソン吉村から帰化)や森孝慈(いずれも故人)が精力的に動いて韓国を圧倒。釜本や吉村のゴールなどで4-1の大勝を飾った。日本が韓国に勝ったのは1959年のローマ五輪予選以来15年ぶり(14試合目)の快挙だった。

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日本が「負の歴史」にピリオドを打ったのは…