
Jリーグは今季の日程がすべて終了し、優勝争いや残留争いに決着がついた。来季へ向けてしばしのオフに入るが、この時期には契約満了でチームを離れる選手が次々に発表される。華々しくプロの世界に入ってくる選手がいる一方で、静かに去っていく選手たちとのコントラストはこの世界の厳しさを象徴するものだ。
25年の歴史を刻んできたJリーグにも、“スーパールーキー”や“超高校級”という評判を集めながら、その期待に応えきれなかった選手もいる。
1993年に開幕したJリーグ初期で“天才”の評判を得た選手といえば、ガンバ大阪でデビューした礒貝洋光だろう。名門・帝京高校で1年時から「10番」を背負ったプレーメーカーだったが、折しもJリーグ創設の勢いとブームに乗って各チームは元ブラジル代表MFジーコ(鹿島アントラーズ)のような世界的名手を次々に獲得。そうした中で特別な存在感は発揮しきれないまま、浦和レッズへ移籍するも1998年、29歳の若さで現役を引退した。
また、同時期に“和製フリット”の評判を得ていたヴェルディ川崎(当時)の石塚啓次もまた、期待に応えきれなかったと言える存在だろう。ラモス瑠偉や北澤豪といった日本代表の主力で活躍する面々を前に、ヒーローインタビューで「僕を出したら優勝できる」と言い切ったことは大きな話題を呼んだ。しかし、世代別を含む日本代表には最後まで縁がなく、2003年に引退。後にラモスは著書で「技術は本当にいいものを持っている。でも、それをフルに使ってプレーするんじゃなく、怠慢なプレーをするときが多い。それでオレが削りにいってメチャクチャ言うと、ハンパじゃないプレーをする」と、精神面に課題が大きくある選手だったことを明かしている。
高校選手権のヒーローとしてジェフユナイテッド市原(当時)に1995年の入団を果たした森崎嘉之も、Jリーグ初期の結果を残せなかった“超高校級”の象徴だろうか。市立船橋高校のエースとして全国高校サッカー選手権で8得点を決めた森崎は、地元の市原に入団。大きく期待されたが、2年間でカップ戦1試合の出場のみという寂しい記録を残して戦力外通告を受けて退団した。その後、トップシーンの舞台に戻ってくることはなかった。