働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。
* * *
今から20年以上前のことだ。大学の道場のドアを開けると、カッターナイフを握りしめた男が目の前に立っていた。
その向こうで、同じ合気道サークルの同級生がなだめようとしているのがみえる。彼を残して警備員を呼びにいくのも気の毒で、男の様子に注意しながら道場に入った。
男は貧弱で、へっぴり腰。一夜の宿代わりに道場に潜り込み、私たちに出くわしたようだった。1対2になって焦ったのか、男は唐突に口走った。「僕は君たちみたいに柔道をやってないから、こうするしかないんだ!」
つい心の中で突っ込んだ。自分が柔道をやっていたのは中学と高校で、今は合気道なんだけど――。
カッターを手に突っ込んできてもたぶん抑えられるが、もしものことを考えたらこないほうがいい。ここはひとつ相手に余裕を見せ、そんなことをしても無駄だとわからせよう。
「ハハハッ」。大きめの笑い声を聞かせると、男は逃げ出した。どこかで暴れるといけない。すぐに警備員に連絡するよう、同級生に頼んだ。
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私とすい臓がんとの付き合いはもう1年10カ月にもなる。あの時の男と違って刃物こそ持っていないが、笑えば逃げ出してくれるほどやわな相手でもない。
にもかかわらず、これまでと変わらず笑顔でいることの大切さを感じることは多い。
それは「明るく元気に」といった精神論よりも、心をコントロールするための実務的なコツとか道具のようなものだ。
治療のことでいうと、がん患者になって驚いたのは、自らがある治療法や検査を受けることに同意するか、選択を迫られる場面が多いことだ。それに先立ち、副作用や代替手段の説明を医師から受ける。
そのとき、眉間にしわを寄せて「闘病」していたらどうだろう。病気で頭がいっぱいになっていて、冷静に物事を判断できるだろうか。