あの頃と変わっていなかった。進歩していなかった。あの事故は今映像を観ているこの事故に繋がっていた。きっとまた、この次の事故も起きるだろう。ニュースを見るたび、そんなデジャ・ビュを覚えるのである。

 しかし、この国の偉い人たちは、どうしても原発を使い続けたいらしい。

 そもそも、増え続ける電力需要のために多くの原発の建設が押し進められたわけだし、電気が必要だから原発も必要なのだという話だったはずである。しかし、節電技術の向上で、原発が一基も稼働していなくとも、国内の電力が賄(まかな)えることが証明されてしまった。

 しかも、人が減っている。高齢化が進み、日本の都市はあらゆる場所で、ダウンサイジングの方向に向かっている。共同体は集約化の過程に入っている。今後も更に節電技術は進歩し、いよいよ使う電力は減っていくだろう。なのに、どういうわけか、当初の目的を見失い、原発を稼働させること自体が目的化してしまっているのだ。これは「無駄遣い」ではないのだろうか? それとも無駄遣いはいけない、と教えられていない人の話なのだろうか?

 近年、我々の生きるこの世界はあまりにも矛盾と不条理に満ちている。眩暈を通り越して、しばしば笑ってしまうほどだ。いや、これはもう笑うしかないという心境になってきている。だから、今我々に必要なものはコメディだ。悲劇は視点を変えればもはや喜劇でしかない。私が時々むしょうにコメディが書きたくなるのは、たぶん心のどこかで深い絶望を感じているせいなのだろう。

『錆びた太陽』は、そんな何年かに一度巡ってくる「絶望の季節」に降ってきた話である。あまりの絶望を反映してか、私の書いたものの中でもかなり「お笑い」度が高くなってしまった。読者の皆さんも一緒にこの世界を笑い飛ばすのと同時に、冷静に見据えていっていただきたいと思う。(寄稿/恩田陸)

※一冊の本 2017年4月号より

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