都市部から遠く離れた地方の小さなパン屋には、妥協なきパン作りの技と、きめ細かい気配りがあった。オーブンから焼き上がったばかりのパンが随時、運び出されてくる。店内にいる間、嗅覚はずっと刺激され続けていた。「売れ筋商品は何度も焼き上がるので、熱いうちに提供するのが鉄則」と成瀬さん。客はホカホカのパンを受け取る。家に着く前に我慢し切れず、車中で一口ほおばった客は少なくないだろう。記者もそのひとりである。まず視覚、次に嗅覚、口に入れば聴・触・味覚と、五感を満足させてくれるのがトラン・ブルーのパンだ。

 都市部や海外に出ず、高山でひたすら技を磨いてきた成瀬さんは、世界最高峰の舞台「クープ・デユ・モンド」で高い評価を受けた。2005年大会の日本代表となり、本大会で日本は3位と健闘した。個人経営の店の職人としては初の代表選出であり、当時は業界の話題をさらった。監督としても12年の大会に出場し、日本を優勝に導いている。

 成瀬さんにあこがれ、「スタッフになりたい」という若者は後を絶たない。すでにトラン・ブルーを巣立った13人が故郷に店を構えている。

 店内から厨房を見ると、若者が真剣な表情でシェフの手元に目を凝らし、生地の膨らみ具合を観察していた。忙しさはピークのはずだが、怒号が飛び交うような殺伐とした雰囲気ではない。適度な緊張感が漂い、スタッフはきびきびと働いている。四方を山々で囲まれた高山で、真摯に技を磨くパン職人の鍛錬の場……トラン・ブルーは、そんなイメージである。

 トラン・ブルーの存在を教えてくれたのは、都内在住の知人だった。「テレビ番組でトラン・ブルーを知り、昨年の夏休みは白川郷と高山に行きました。パン屋さんまで徒歩で行けるホテルに宿泊、早朝に整理券を取りに行き、念願のパンを食べることができました」とのこと。彼女にとっては、「パン屋こそ高山観光の目玉」だったというわけだ。

 高山市はフランスの旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で三つ星が付いて以来、国内外からの観光客が増加の一途をたどり、年間約400万人が訪れる。トラン・ブルーにも世界各国、全国各地から客が押し寄せ、県外客の数は約8万人に。今や世界遺産・白川郷に負けない人気の観光地といえるかもしれない。(ライター・若林朋子)