<歌詞を小泉今日子で書き始めたのもこれ(1987年のアルバム「Phantasien」)が最初(それまでは「美夏夜」というペンネームを使っていた)。なれてきて、恥ずかしくなくなってきて>(注3)
<長い時間があったから、少しずつ恥ずかしくないことも増えているという感覚があるのね。(中略)文章を書くこともずっと恥ずかしかったけど、たとえば書評委員会も二年で辞めていたら、やっぱり中途半端で恥ずかしいまま終わっていた気がする>(注4)
彼女は、人前に心身を投げ出す必要にせまられると、まず「恥ずかしい」と感じるようです。「シャイ」で「私」を見せたがらない人間として、きわめて自然な反応といえます。
そうした「恥ずかしい」ことから逃げ出さず、「私」をさらすのとは別のアプローチで取り組もうとするのが、小泉今日子の流儀に見えます。他人から吸収したものを「自分らしい」形にして発信する――この「得意技」で勝負できる道を探すわけです。ライヴも作詞も書評も「恥ずかしくなくなった」のは、おそらくそれに成功したからです。
小泉今日子が手がけた歌詞を見ると、「自分以外の何か」の「尊さ」や「儚さ」が簡素な言葉で綴られているものが目につきます(彼女が愛読している大島弓子の漫画を思わせます)。女性歌手の自作歌詞は、「あなたをこんなに愛してる『私』」を声高に主張するものになりがちです。そういう類いの作品と、小泉今日子が描く世界は異なります。
彼女の著す書評にも、難解な用語や奇をてらった論法は現れません。誰にでも書けそうに見える平易な語り口で、対象としている本のすばらしさを読者の心に沁みこませます。
作詞でも書評でも、「私」をさらすのとは違うやり方で、小泉今日子は成果をあげています。「シャイ」な自分を変えることなく、体も言葉も公共の場に露出させる――そんな矛盾する営みを、30年間、彼女は続けてきました。
したがって小泉今日子は、「マウンティング=『私の方が上なのよ』アピール」とは無縁です(「マウンティング」イコール「私」自慢なわけですから当然です)。