中日でコーチや監督を務めた森繁和氏 (c)朝日新聞社
中日でコーチや監督を務めた森繁和氏 (c)朝日新聞社
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 ドミニカ共和国といえば、かつては広島の助っ人の供給源というイメージが強かった。同球団が1990年に設立したドミニカ・カープ・アカデミーは、ロビンソン・チェコ、アルフォンソ・ソリアーノ、サビエル・バティスタ、ヘロニモ・フランスアら多くの逸材を輩出している。

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 そして、この「優良助っ人を格安で獲得する」戦略にならい、2000年代半ばからドミニカに進出した中日も、今では“本家”を上回る成果を挙げている。立役者となったのは、04年からコーチとなり、17、18年には監督も務めた森繁和氏だ。

 04年オフ、ドミニカで開催されたウィンターリーグの視察に行ったのがすべての始まりだった。当時の中日は海外の編成担当が不在。落合博満監督は、信望厚い森氏の眼力にすべてを託した。

「実績がなくても、ゆっくり1年間見て、(1年目の成績が)ダメでも、もう1年使ってみたいと思うような26、27歳までの、安く獲れてちょっといいの」というのが条件だった。球団が用意した獲得資金は1億円。米球界でそこそこの実績を残した30歳前後のベテランを1人5000万円で獲得した場合、額面どおり働かなければ、「何であんなの獲ったんだ」と非難されるが、若いドミニカ人選手なら、1人1000万円程度で獲得できるし、伸びしろがある分、当たる確率も高くなるというわけだ。

 現地に何のコネもなかった森氏は、球場周辺で見かけた日系人に協力を求めるなど、手探りの状態からスタート。乗っていた飛行機が火を噴いたり、早朝散歩中に不審者と間違われ、警官にピストルを突きつけられたり、日本では想像できないようなアクシデントにも何度か見舞われた。

 そんな一筋縄ではいかぬ状況下で、力になってくれたのが、西武コーチ時代に助っ人としてプレーしていた“マルちゃん”ことドミンゴ・マルティネス氏だった。ドミニカ出身で、地元の球団トップにも顔が利くマルティネス氏の伝手で、人脈も広がった。「ダイヤの原石がゴロゴロいる」と実感した森氏は、10年まで7年連続でドミニカに通う。

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最初に成功を収めたのが…