最初に成功を収めたのが、08年入団のマキシモ・ネルソンだ。ヤンキース傘下でプレー経験があったが、当時は野球だけでは生計を立てられず、漁師も兼業していた。紹介者は、広島の練習生とブルペン捕手を務めたあと、07年から中日のブルペン捕手兼スペイン語の通訳になったルイス・フランシスである。

 入団テストの日、球場でネルソンを待っていた森氏は、原っぱの中から短パン、Tシャツ姿の長身の男が、サトウキビをかじりながら、やって来るのを目撃する。野球選手らしからぬ風体に唖然としたが、いざ投げてみると、ぶっつけ本番でいきなり150キロ近い速球を披露した。ネルソンにとっては「日本に行く」ことよりも、「その日の空腹を満たす」ことのほうが重要事だったそうだが、そんなハングリー精神が日本で花開く。年俸10万ドル(約1070万円)で入団したネルソンは、制球力を磨き、めざましく成長。11年には開幕投手を務め、10勝14敗、防御率2.54の好成績で、リーグ優勝に貢献している。

 09年には、MLBナショナルズでもプレーしたトニ・ブランコが入団。07年から母国・ドミニカのウィンターリーグに参加したブランコは、当初日本に行くつもりはなかったそうだが、前年退団したタイロン・ウッズに代わる大砲を探していた森氏と出会ったことが運命を変える。

 年俸30万ドル(約2700万円)の格安助っ人は、1年目に打率2割7分5厘、39本塁打、110打点で本塁打王と打点王の二冠を達成。2年目にも32本塁打を記録するなど、4年間中日の4番を担った。11年オフ、落合監督辞任に伴い、森コーチが退団した際には、ネルソンやエンジェルベルト・ソトとともに「森さんと一緒に野球がしたい」と訴え、再契約を保留するひと幕もあった。来日後も親身になって彼らの面倒を見つづけた森氏がどれだけ慕われていたか、うかがい知れるエピソードである。ブランコはDeNAに移籍した13年にも首位打者と2度目の打点王を獲得するなど、オリックス時代も含めて日本で8年間プレーした。

暮らしとモノ班 for promotion
2024年の『このミス』大賞作品は?あの映像化人気シリーズも受賞作品って知ってた?
次のページ
今後も“森ルート”から来る助っ人は続く?