学校を選ぶ基準は、「この子に合う勉強は」「この子にとっていい高校は」というものであるはずなのに、いかに偏差値の高い学校に行くか、ということによってその子の評価が決まっていく傾向が見える。
本人が超勉強したくて偏差値の高いところに行きたいなら、親は一緒に探してあげればいい。本人が本当に勉強したい場合にだけ、サポートすればいいのである。
「この子は、思いを持っているから芸術大学や芸術高校に行く」
「いい先生がいて、この学校でやりたいことがあるから行く」
「この子がわくわくするから行く」
これらの動機が認められないというのでは、全く本人のためになっていない。
近代教育はある意味、生産できる人間とその予備軍をつくるためのものと言える。それゆえ、生産のプロセスに乗らなければ、「いらない」「使えない」人間になってしまう。日本は、「使える人間」をつくるための教育制度が中心になっているようだが、それは、「本人が満足できる人生を送る」という教育とは全く異なるものである。
日本はもはや、「社会で使えるかどうか」という基準を保つことに、親も含めて全員が全力で協力してしまっているのではないか。
そして、それが普通になりすぎて、誰も立ち止まって考えようとしない。そのせいで、せっかく立ち止まった子どもが苦しんでしまうという状況が生まれているように、私には見える。
気づいた人たち、何かを変えようとする人たちは、今の日本社会にとっては「異分子」になってしまっている。だから、スムーズに流れている現状のシステムに問題が生じたときには、その「異分子」が他に影響を与えないように、排除の論理が働いてしまうのではないか。
私たちは演者の一人であり、普通に生きていればシステムの維持に協力してしまう。けれど、普通に生きようとせず、自分流に生きようとすれば、本当は疑問を感じるはずなのである。
違うでしょ、と。
○ウスビ・サコ Oussouby SACKO/1966年、マリ共和国・首都バマコ生まれ。中国留学を経て91 年に来日し、京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。京都精華大学人文学部教授などを経て、2018 年4月、学長に就任。研究テーマは「居住空間」「京都の町家再生」「コミュニティ再生」「西アフリカの世界文化遺産(都市と建築)の保存・改修」など。日本の教育や社会の問題点を鋭く指摘した『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』(朝日新聞出版)が発売中。