2千年以上も日本文化とともに歩んできた麹菌。塩麹ブームで脚光を浴びたが、その科学的な解明が、近年、急速に進んでいる。
千葉県柏市にある東京大学柏キャンパスが、その現場の一つ。ここのオーミクス情報センターには、生命科学に革命をもたらすと言われる装置「次世代シーケンサー」がずらりと並んでいる。この装置を使って、キッコーマンや東大が共同で、しょうゆ造りに欠かせない麹菌の一種「アスペルギルス・ソーヤ」の全ゲノム(遺伝情報)を解読、12年に論文を発表した。
次世代シーケンサーには、ゲノム情報を一気に読み取る力がある。2003年のヒトゲノム計画当時は、ゲノムを読むのに10年以上、3500億円超かかった。それが最新の次世代シーケンサーなら約10日、70万円ほどだ。
これまでのしょうゆ造りは、実際の醸造を積み重ね、経験から良い菌や発酵条件を探っていた。ゲノム解析を生かせば、方法は一変する可能性があるという。
原料のたんぱく質を分解する力を強化したり、もろみを搾りやすくして生産効率を上げたりする改良に、ゲノム情報を生かす。酵母や乳酸菌といったほかの微生物と連携がうまくいくのはなぜか、そんな仕組みもわかってくるかもしれない。
またしょうゆのおいしさのもとになるアミノ酸やペプチドの生産を制御できるようになれば、うまみ成分を多くしたり、病気の予防に働く成分を増やしたりすることもできるという。
東京・文京区の東大本郷キャンパスは、麹菌とつながりが深い場所だ。赤門周辺では、研究室の建て替えで地面を掘り下げると、江戸時代に麹菌を大量に培養していた地下式麹室がたくさん見つかる。本郷台地の地下は温度や湿度が一定で、麹の発酵に適していたらしい。神田明神のそばの天野屋では、今も地下式麹室が現役で活躍して甘酒やみそをつくっているが、同じような形式の麹室だ。本郷・湯島周辺は、1873(明治6)年の政府文書には、42カ所の麹室があったと記録されている。
「そんな場所で麹の研究をしているのは奇遇ですよね」
と言うのは大学院農学生命科学研究科の北本勝ひこ教授。これまでの生物学の手法では、麹菌の研究は難しすぎて手がつけられない面があった。麹菌は多細胞の微生物。遺伝子の数もヒトの半分もある。ゲノム解析が可能になったここ数年で、研究がようやく進みつつあり、研究者も増えているのだという。
麹菌は、たんぱく質を産出する能力では微生物の中ではチャンピオン級の力を持つ。食品にとどまらず、バイオエタノールの生産や、医薬品・化学製品生産などに活用が期待される。巨大化学プラントでモノをつくるかわりに、1千分の1ミリサイズの微生物に効率よく生産してもらおうという考えだ。「古くから麹とつきあってきた日本はアドバンテージを持っている。でも足元の宝に気づいていない」と北本さん。
教授室の書棚にはアニメやドラマにもなった漫画『もやしもん』がずらりと揃えられていた。主人公の農大生は菌を肉眼で見たり、菌と会話したりできる能力の持ち主。主人公の実家は種麹屋という設定で、微生物が話の展開で重要な役割を演じる。北本さんの風貌も『もやしもん』の樹教授を彷彿とさせる。
「もやしもんをきっかけに、この研究室を選んだ学生もいるんですよ」
北本さんは学生に「麹菌研究をやるときには、麹菌の気持ちがわからないといけない。麹菌と一体になるんだ。みそ汁、日本酒、しょうゆを飲んで食べろ」と勧めている。「科学的ではないけど、それこそ日本のアドバンテージなんです」
北本さんは、アメリカのスタイルで彼らと同じテーマを追うのではなく、「日本文化の香りがするサイエンスを世界に発信したい」と語る。
製薬会社の三共(現在は第一三共)の初代社長である高峰譲吉は明治時代に、麹菌の研究から消化酵素「タカジアスターゼ」を見つけて世界中で発売し、財を成した。バイオベンチャーのはしりだ。彼は英国留学から帰国したあと、「西洋で進んでいる工業の後を追うより、習得した学術を日本固有の工業に応用したい」と独自の研究を続けた。麹の香りのするサイエンスは、再び世界にインパクトを与えられるだろうか。
AERA 1月28日号