やがてツイッターでのつぶやきは「詩の礫(つぶて)」として世に知られるようになっていく。それまでは難解な現代詩を発表し詩壇で高く評価されていたが、一般的には無名に等しかった。そんな彼が「詩の礫」で一気に有名になり、原発事故が落ち着いた後も福島からの発信者、福島の代弁者としての活動を続けてきた。

 福島市で育った和合はおばあちゃん子で、大人しく優しい少年だった。小学校3年生の春、同じ学校に妹が入学してきた。母・タケ(76)は、

「学校に慣れない妹が靴を取り違えたりしてはいけないと、いろいろ世話をしてやったりするんです。『そんなことやんなくていい』と言ったんですけどね。亮一はいつもそんな風でした」

 と話す。身体は大きかったが、喘息だったせいもあって運動は苦手。おまけに大の野菜嫌いだった。給食が食べられず、毎日教師から見せしめのように残されたり叱られたりした。それがつらくて学校ではいつも怯えていたという。

「本来は饒舌な人間なのに言葉を失っていたというのかな。5年生で郡山の小学校に転校するまでそんな風でした。今でも昼間、理由もなく不安になることがありますが、何か子ども時代とつながりがあるんでしょう。それがまた、ものを書くことへと自分を走らせているように思います」(和合)

 中学2年生の時、父・隆(83)が病気で倒れ、仕事をやめざるを得なくなった。食べるに困ることはなかったものの、思春期の和合には将来への悩みがいつもつきまとった。地方育ちの少年らしく東京への強い憧れはあったが、両親を置いて福島を出ていく状況にはなかったのである。

 高校は県下一の進学校である福島高校に進む。2年生の時、それまで続けていた剣道を辞めて演劇部に入った。部室の壁に唐十郎の芝居のポスター(横尾忠則デザイン)が貼ってあり、アングラに興味が湧いた。詩にも関心を持ち始めた。タケに、「お母さん、詩人ってどこからお給料をもらうの?」と訊ねて驚かせたのはこの頃のことだ。

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