北陽の上杉達也 (c)朝日新聞社
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 センバツ史上最も印象に残る珍名球児といえば、1988年、8年ぶり5度目の出場をはたした北陽(現関大北陽)の背番号13・太田孔史郎信忠の名が挙がる。

 戦国武将を思わせる個性的な名前は、少年野球チームの監督で、野球を教えてくれた父・忠一さんが命名したもの。歴史本が好きで織田信長ファンという忠一さんは、信長の長男の名前が信忠であることから、「これだ!」と思い当たり、自身の「忠」と祖父・信一さんの「信」から1字ずつ取って命名。さらに古代中国の思想家・孔子から1字を貰い、孔史郎の3文字を加えた。

 全国でも希少な計5文字の名前は、長過ぎて、模擬試験の際にコンピューターに入力できず、友達から「名前負けしている」と冷やかされるなど、エピソードに事欠かないが、岡田彰布、長崎慶一らを輩出した名門野球部にあって、新チーム以来、22試合に出場。捕手や代打の切り札として、51打数19安打13打点、打率3割7分3厘の好成績を挙げ、チームのセンバツ出場に貢献した。

 1回戦の東邦戦、1対7と大きくリードされた9回2死二塁のチャンスに代打で起用された太田は、この年の準V左腕(翌89年は優勝投手)・山田喜久夫から左中間に鮮やかなタイムリーを放つ。だが、二塁を狙ったのが裏目に出て、タッチアウトで無念のゲームセット。「二塁はやっぱり欲張り過ぎました」と悔やんだが、甲子園の大舞台で記録したタイムリーは一生の思い出になったはずだ。

 それから2年後の90年、今度は弟の太田平八郎忠相が同じ北陽の背番号12で出場する。こちらも江戸時代の儒学者・大塩平八郎と“大岡裁き”で知られる名奉行・大岡越前守忠相に由来する5文字の名前。新チーム以来、26試合に出場。内野手や代打として56打数25安打9打点、打率4割1分2厘と、打点以外は兄を上回る好成績だった。

 2回戦の玉野光南戦、エース・寺前正雄の右犠飛で4対2とリードを広げた直後の8回2死三塁のチャンスに代打・太田が告げられた。場内アナウンスは「代打・太田君」だったが、2年前の兄同様、テレビ中継の画面下にフルネームで表示されたため、全国的に注目されたのは言うまでもない。

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