広島のドラ1ルーキー・栗林良吏が、かつて北別府学や永川勝浩が着けた背番号20を受け継いだ。
【写真】「平成で最もカッコいいバッティングフォーム」はこの選手!
過去にもスター選手の栄光の背番号を受け継いだ選手は少なくない。当時彼らはどんな思いで背番号を受け継ぎ、プロ入り後、どんな成績を残したのか、振り返ってみよう。
阪神入団と同時に“ミスタータイガース”掛布雅之の31番を着けたのが、91年のドラ1・萩原誠だ。
同年夏の甲子園では、大阪桐蔭高の4番サードとして打率.688、3本塁打、8打点で同校の初出場初Vの立役者になった。
31番は掛布の引退後、3年間欠番になっていたが、将来の主砲と期待され、ポジションも同じ“掛布2世”に栄光の背番号が受け継がれることになった。
当初は「僕には荷が重いです。自分の背番号が欲しい」と辞退した萩原だったが、球団側から「ぜひ受け継いでほしい」と説得されると、「背番号を汚さないよう頑張ります。掛布さんを超えるような選手になりたい」と大きな夢を掲げた。
そんな萩原が、往年の掛布を彷彿とさせる打棒で虎党を熱狂させたのが、プロ4年目の95年だった。
7月13日の広島戦、前日からスタメン出場していた萩原は7回、5対5の同点に追いついた直後、井上祐二からバックスクリーン右に豪快なプロ1号。さらに9回にもライナーで左翼席に運ぶ2打席連続本塁打で、一躍その存在をアピールした。
「4年かかったなあ。遅かったですね」と照れた22歳の若トラは、8月5日の中日戦でも、0対0の5回に左越え先制ソロを放つと、9回にも技ありの右越えアーチ。「ひとつの壁を超えたかな」と藤田平監督代行を喜ばせた。
だが、翌年以降は、肩や腰の故障で満足にプレーできない日々が続き、近鉄移籍後も含めて、1本も本塁打を打てずに終わった。
アマ復帰した日本IBM野洲で03年までプレーしたあと、「ケガした箇所が治ったときの感動は忘れられない」という自らの体験からトレーナーを志し、18年に整体院を開業。野球少年たちのケアにあたる。院内の壁には31番のユニホームが飾られている。