最近は乱闘シーンもあまり見られなくなったプロ野球だが、過去の乱闘事件をYouTubeなどで改めて見ると、意外や意外、一見おとなしそうなイメージの選手が、主役を食うような大暴れを演じていたりする。
【写真】美しい筋肉、私服ファッション、着物姿まで…大谷翔平お宝写真ギャラリーはこちら
代表的なのが、巨人時代の川相昌弘だ。2番打者として通算533犠打の世界記録を打ち立て、遊撃手として堅実な守備を見せた職人肌の名脇役は、乱闘シーンになると、別人のように豹変した。
1993年6月8日、“北陸の乱”と呼ばれる富山のヤクルト戦での乱闘劇に際しては、ショートから猛ダッシュで駆けつけると、乱闘の輪に向かってプロレスラー顔負けのジャンピングニーパッドをかましている。
直前のプレーで本塁に送球し、古田敦也をアウトに仕留めていた川相は「せっかく自分のプレーに酔っていたのに、ああいうこと(捕手・吉原孝介の古田への肘打ちタッチをきっかけに両軍乱闘)になっちゃったからなあ」と回想。自らの好プレーに水を差された怒りも多少は含まれていたかもしれない。
96年7月13日の横浜戦でも、2点を追う7回2死、吉原が五十嵐英樹のすっぽ抜けのフォークをヘルメットにぶつけられ、脳震とうを起こして昏倒した直後、「どこに投げてんだ!」と叫びながら、真っ先にベンチを飛び出したのは、川相だった。
さらに98年8月2日の阪神戦では、8回に矢野輝弘の背中にぶつけた槙原寛己が、故意死球と確信した大熊忠義コーチに「問答無用」の飛び膝蹴りを浴びたのを見ると、川相は守備位置からマウンドに急行し、大熊コーチに飛び膝蹴りのお返し。「向こうが(槙原に)蹴りを入れるのがわかったからな」とチームメイトの仇を討った。
当時は冒頭のヤクルトとの“因縁試合”をはじめ、死球やラフプレーをめぐっての乱闘騒ぎが相次いだが、“仁義なき戦い”のさ中にあって、独特の存在感を発揮した川相は、乱闘部門でも“陰のMVP”だった。
富山の乱闘劇で登場した古田も、“のび太”のニックネームとは裏腹に、なかなかの武闘派だった。