■個性を「熟成」できた
――これまでの役者人生を振り返ると、たくさんの“天敵”と“戦友”に支えられてきた。
夢を持つ人間でありたい、目的のある人間でありたい、という意味で「役者」という仕事を選んだのが19歳の時。そして、僕のことを知らない人が僕を見て笑ってくれた姿を見て手応えを得たのが、26歳の時です。
30歳前後で、「これだったらいける」と思えた自分の個性を、「お前の個性は、いまは通用しないから、俺のところではいらない」と、(「サマータイムマシン・ブルース」「踊る大捜査線」シリーズを監督した)本広克行さんに言われました。それから5年ほど経って、「勇者ヨシヒコ」シリーズで福田雄一さんに出会い、福田さんには「個性は全部出していこう」と言われて。本広さんに「待て!」と言われたものを、今度は福田さんに「行け!」と言われたわけです(笑)。最初から「行け」と言われていたとしたら、自分の個性は小手先だけのものになっていたかもしれない。「待て」と言われたことで、自分で言うのもなんですが、少しだけ熟成させることができたのかもしれません。本広さんは“天敵”で、福田さんは“戦友”です。「マイ・ダディ」の金井さんは、これからもずっと“戦友”だと思います。
――来月も再来月もご飯が食べられる。そう思えるようになったのは37歳のときだが、それまで「役者をやめたい」と思ったことは、一度もなかった。
「このまま日の目を浴びないかな」と思ったことはあります。でも、やめたいと思ったことはなかったんですね。変わってるでしょ(笑)。「やめない」という選択をして、次の日の自分がなんとかしてあげよう、という思いで毎日動いていました。
人前に立つということをこれから先も楽しめるかどうかはわからないですし、もしかしたら、僕のなかで“苦しいから役者をやる時代”がやってくるかもしれない。でも、70歳を超えても、主演作を提げて来日するジャック・ニコルソンみたいな俳優もいるわけです。そこまでは楽しくやっていたいな、という思いはあります。
(ライター・古谷ゆう子)
※AERA 2021年9月13日号