アントニオ猪木もバックドロップを代名詞としていたプロレスラーの1人だ。延髄斬りや卍固めなどのイメージが強いが、新日本プロレス旗揚げ当時などの70年代は柔軟な身体を生かした「反り投げ」系技を多く用いていた。バックドロップもその1つで当初はオーソドックスな「抱え上げ式」を使用していたが、ルー・テーズ来日以降は「ヘソで投げる」ものを使い始めたとされる。
バックドロップの印象を強くしたのが、74年10月10日NWF世界戦で行われた大木金太郎戦(東京・蔵前国技館)。猪木の日本プロレス追放、新日本プロレス立ち上げの経緯で両者には感情的シコリがあり遺恨試合となった。大木のヘッドバッドと猪木のナックルパートの応酬の末、13分13秒バックドロップからの3カウントで猪木が勝利した。のちに鶴田のバックドロップが世に知れたのも蔵前だったことを思うと因果を感じる。
猪木はその後も数々のビッグマッチでバックドロップを使用した。76年2月6日、日本武道館でのウイリエム・ルスカ戦は「プロレス対柔道」の異種格闘技戦として行われた。その試合で猪木は、ミュンヘン五輪金メダリストに対してバックドロップ3連発を放ち、20分35秒タオル投入でのTKO勝ちを収めた。また86年6月20日の京都府立体育館では形こそ崩れていたが、223cm230kgと言われるアンドレ・ザ・ジャイアントをバックドロップで投げたことが話題になった。
鶴田、猪木の他にも強烈なバックドロップの使い手はいる。
日本人では、もう1人のAWA世界ヘビー級王座戴冠者(90年2月10日、東京ドーム、ラリー・ズビスコ戦)、マサ斎藤が繰り出していたものも印象に残る。米国時代に改良を重ね、捻りを加えた強烈なものでAWAサーキット当時は「サイトー・スープレックス」と呼ばれていたという。また斎藤を尊敬してやまない長州力も、同様の捻り式の強烈なバックドロップを使っていた。