バックドロップはプロレスを代表する投げ技。多くのレスラーが使用してきたが、バックドロップの名手と呼べる選手は誰だろうか……。一撃必殺、説得力抜群の技が生み出した至極の名シーンを振り返る。
まず、バックドロップといえばジャンボ鶴田は外せない。
72年ミュンヘン五輪のアマレス日本代表は、五輪後に「全日本プロレスに就職します」の名言とともにマット界へ。米国での武者修行を経て73年に帰国、「若大将」と呼ばれジャイアント馬場に次ぐ次世代エースとして期待された。
国内リーグ戦などでは結果を残したが、国外メジャータイトル戦における外国人トップレスラーたちの壁は厚かった。ルール等を巧妙に利用されるなど寸前でタイトルを逃すことも多く、ファンから「善戦マン」と呼ばれたほどだった。そんな鶴田のプロレス人生を左右したのもバックドロップだった。
若手時代から使用していたが、鉄人ルー・テーズから「ヘソで小さく弧を描くように投げろ」とアドバイスを受け、破壊力が増した。のちに「岩石落とし」とも呼ばれる説得力抜群の必殺技となった。受け身が上手くない選手には致命傷になりかねないため、相手に応じて落とす角度などを変化させていたというほどだった。
バックドロップで世界を獲ったシーンはプロレス史に残る名場面。84年2月23日、東京・蔵前国技館でインターナショナル王者の鶴田がAWA世界王者のニック・ボックウィンクルとダブルタイトル戦に挑んだ。試合は32分0秒、バックドロップ・ホールドでのピンフォール勝ちで二冠王者となった。
そしてバックドロップを巡る忘れられないシーンがもう1つある。90年6月8日、東京・日本武道館での三沢光晴とのシングルマッチだ。大量の離脱者が出るなど、全日本プロレスの非常事態に立ち上がった三沢。シリーズ開幕戦で虎のマスクを脱ぎ、素顔でのファイトを続け最終戦でエース鶴田と激突した。
エンディングにつながるスリリングな切り返しはプロレスの醍醐味だった。鶴田のブレンバスターを空中で返した三沢がバックドロップを仕掛ける。これを再び鶴田が空中で返し三沢に被さってフォールへ。しかしカウント2から三沢が再び返して24分6秒ついにカウント3が入った。
「三沢が勝った」(日本テレビ/若林健治)という歴史に残る名実況も、間接的だがバックドロップが生み出したものだった。