『ガリバー旅行記』ジョナサン・スウィフト著 柴田元幸訳
朝日新聞出版より発売中
『ガリバー旅行記』という書名をはじめて聞くという人はあまりいないだろう。しかし、「内容は?」と訊かれると言葉に詰まるかもしれない。漱石の『坊っちゃん』などとならび、この本は「子供の頃に読んだきり、手に取っていない本」ランキングでいつも上位にくる。出会いが早すぎて、損をしてきた。
あらためて強調したい。『ガリバー旅行記』は子供が読んでもおもしろいが、大人が読んだらもっとおもしろい。しかも、変におもしろいのだ。
この変さを生み出しているのはもちろん物語内容でもあるが、それ以上にガリバーの、お利口なのか愚鈍なのかわからないキャラクターとかかわる。ご存じのようにガリバーははじめは小さい人ばかりの国へ、ついで巨人ばかりの国へと漂着するが、その後はより入り組んだ設定になり、空飛ぶ島で思弁にかまけてぼおっとしている人たちや、人間を支配する馬などと出会う。そんな珍体験はそれだけで十分おもしろいけれど、その隙間から誰のものとも知れぬ“風刺の魂”が見え隠れする。「それ、あんたのことよ」と言わんばかりの声が聞こえるのだ。
ガリバー自身は、とにかくびっくり仰天してばかりいる。その体験談は一見、緻密で知的だけれど、どこか間が抜けてもいる。こういうのを何と呼んだらいいのか。しかもこの人は自分は品があり、慎重なタイプだと思っているようだが、実は下ネタが好きで、おっちょこちょいでもある。
実に複雑な味わいである。すでに何度も邦訳が出た作品だが、何度訳してもむずむずするような尽きぬ魅力があって、まだ何かあるのでは?と思わせる。そんな作品に、今回は名高い翻訳家の柴田元幸が挑んだ。さて、この作品特有の「むずむず」をどんな日本語にしたか。
著者のジョナサン・スウィフトもややこしい人だった。彼の書く物は一癖も二癖もありひねりが効いていた。しかし、そんな彼が『ガリバー旅行記』で心がけたのは読み心地の良さでもあった。英国の一八世紀といえば、ポライトネス(「上品さ」)という美徳が世に広まった時代で、言語に関しても王権を中心にした「正しい英語」「品のある英語」がもてはやされた。スウィフトも言葉の使い方には敏感で、わかりやすく明晰な言葉遣いを心がけた。本作も原稿ができると必ず使用人の前で朗読し、出来具合をチェックしたらしい。
ならば、とりあえず滑らかな日本語にすればいいのか。もちろんそこは大事だ。少しでも原文を読んだことがある人ならわかるが、『ガリバー旅行記』の英語は実にテンポがいい。しかし、それだけではない。ちょっと形式ばったところもある。滑らかとは言っても現代風の「饒舌体」とはちがい、一八世紀らしい間合いと典雅さ、淡々とした冷静さがある。加えて、上記でも触れたようなガリバーの性格が入ってくる。聡明なのか、阿呆なのか。真面目なのか、ふざけているのか。どうもわからない。ちょっとインチキくさくもある。
しかし、そんな難題を柴田は軽々とこなし、実に魅力的な作品世界を創造した。さすがだと思うのは、特定の様式を流用するのではなく、手作りのオーダーメイドで文章を仕上げたところである。柴田訳の大きな特徴は何と言っても「です・ます調」の採用だろうが――そのおかげでおとぎ話風の雰囲気も生まれたが――この丁寧体には慇懃無礼さや、微妙な被虐性も混じる。品や知性、観察者としての視線なども表現される一方、おっちょこちょいさもにじみ出す。原文の奥の深さをうまく受け止めた訳文になっているのだ。
最後にそんな訳文の妙味を一つだけ具体的に紹介しよう。「そこからさらに一キロ近く進みましたが、家も人もいっこうに見あたりません。少なくともすっかり弱りきった身には、何も目に入りませんでした。(中略)草の上に横たわると、草は大変短くて柔らかく、生涯こんなにぐっすり寝た覚えもないというほど深い眠りを私は貪り、どうやら九時間以上眠ったと思われます。目がさめると、ちょうど夜が明けたところだったからです。」(二三頁)
傍線を引いた「いっこうに」「すっかり」「きった」「ぐっすり」といった語の多用はです・ます体特有の過剰な強調をも生むが、同時に耳につくのは「っ」音(促音)でもある。何しろここはリリパット国だ。こうしてみると、「っ」の音が微妙に下町的な気っ風のよさを呼び込みつつ、はしゃいだ感じも作っている。『ガリバー旅行記』は後半、人間世界への絶望や呪詛が強まりトーンも暗くなるが、前半の“びっくり仰天するガリバー”の無垢さは生きている。無垢の記憶を「っ」音で響かせるなんて、なかなかの芸当ではないだろうか。