界記者大会」に参加した=1983年7月6日 (c)朝日新聞社
界記者大会」に参加した=1983年7月6日 (c)朝日新聞社

 昭和35年の安保闘争の総括をめぐって、反日共系の学生組織はいくつものセクトに分かれていく。昭和44年の東大安田講堂攻防を頂点とする学生運動の組織は四分五裂となった。こういう潮流のなかで田宮の属する共産主義者同盟赤軍派が、ブントの1セクトとして誕生する。

 昭和44年9月3日、共産主義者同盟赤軍派軍事革命委員会名で、「戦争宣言」を発表し、軍団を組織して赤軍に結集せよ、全人民の武装を切り拓き、世界赤軍へ発展させよと軍事行動への檄をとばした。

 赤軍派を指導したのが、議長塩見孝也(元京大生)、軍事委員長田宮高麿(元大阪市立大生)である。

 ふたりは、赤軍派の武力闘争がつぎつぎと失敗するのに焦り、ハイジャックで国外にわたり、国際根拠地をつくるとともに世界革命の軍隊組織を編成しようと考える。その計画を進めている折りに、塩見は、東京の田端にあるアジトで逮捕されてしまった。これが昭和45年3月5日のことである。

 塩見が逮捕されたあと、田宮がどのようにして北朝鮮行きを進めていったのかははっきりしていない。しかし、とにかくひとたび目標を設定すると、どんなことでもやりぬくというのが赤軍派の戦略であり、田宮の性格であったのだろう。8人のハイジャッカーが集められ、乗っとり作戦を「フェニックス作戦」と名づけて、ひそかに執拗に訓練をつづけた。

 各人の分担がきまり、計画遂行の自信がわいてから、3月31日という決行日をきめた。

 冒頭の出発宣言は、決行日の前夜、田宮が書き、投函されたと推定される。「赤軍」特別号の6月10日号(ハイジャック特集号)に収録された。

 6000字に及ぶ長文のなかで訴えている要点は、<一国社会主義革命の時代は去り、世界革命の時代にはいった。いまや世界革命を統率する司令部とその根拠地をつくらねばならない>というところにある。

 また「世界的闘いの後を今見る時、ヴェトナム、ラオス、カンボジアにおいて、中近東において、全て拡大、前進への道を歩んでいる」と世界情勢を分析している。

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ハイジャックの2年後に連合赤軍浅間山荘事件が…