「やっぱり野手転向の時ですかね。投手のラスト2年間(2006~07年)は一軍で1試合ずつしか投げてなくて、ベストを尽くして悔いなくやろうっていうふうに思っていた時期で。その中で野手転向を、まあ打診されてはいないんですけども、たぶんそういう方向に持って行ってもらったんですね」

 引退会見で自身のプロ野球人生におけるターニングポイントとして挙げたように、投手として7年間で144試合に登板して18勝19敗1セーブ、17ホールド、防御率4.96を記録したのち、雄平は野手に転向。「相手投手の球を打者目線で見て、その経験を投手として生かす」つもりで出場した2009年秋のフェニックス・リーグが、その出発点となった。

「ピッチャーの時は苦しかったんです、最後は。(野手として)新しくできる喜びをまた感じられるようになって、野球が大好きになって。もうちょっとピッチャーをやろうか迷ってたんですよ、実は。投手でプロに入って、あきらめることは良くないっていうのが僕の中ではあったんですけど、野手に転向するっていうのは“あきらめ”じゃなくて、“挑戦”というような気持ちで。そういうことも生きていく中であるんだな、いい意味でのあきらめっていうのも肝心なんだなっていうのを、そこですごく学びました」

 野手転向1年目、ドラフト3位の荒木貴裕、同5位の松井淳といった大卒ルーキーのバッティングに危機感を覚え、「彼らの2倍でも3倍でも(練習を)多くやらないと絶対にかなわない」と、ひたすらバットを振った。登録名を現在の「雄平」に変えた2011年に、イースタン・リーグで規定打席到達者中トップの打率.330をマーク。2012年には待望の一軍昇格を果たすと、翌2013年は開幕第3戦の阪神戦(神宮)でドラ1ルーキーの藤浪晋太郎から野手転向後、初のホームランも放った。

 だが、ブレイクの兆しを見せた雄平に、思わぬ試練が降りかかる。4月17日の中日戦(神宮)で打球を追った際に、右ヒザ前十字靭帯を断裂。野手として花開くのは、長いリハビリを経て復帰した2014年のことになる。主に5番・右翼で打率.316(リーグ6位)、23本塁打(同5位)、90打点(同3位)というハイレベルな成績を残し、ベストナインに選出されると、翌2015年──。

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