今季限りでユニフォームを脱ぐヤクルトの雄平 (c)朝日新聞社
今季限りでユニフォームを脱ぐヤクルトの雄平 (c)朝日新聞社

 ヤクルト6年ぶりのセ・リーグ優勝──。その歓喜の陰で前回、2015年の優勝に大きく貢献し、長年にわたってファンに愛されたV戦士が、ユニフォームを脱ごうとしている。

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「19年間という長い間、たくさんの方に支えられて、最後まで一生懸命やりきることができました。本当にその感謝の気持ちでいっぱいです」

 ヤクルト一筋19年目の雄平(37歳)がそう話したのは、10月5日に行われた記者会見でのこと。これに先立つ9月29日に球団から今季限りでの引退が発表され、翌30日にはヤクルト戸田球場で行われた楽天とのイースタン・リーグ最終戦で、ファンに“最後”の雄姿を見せていた。

「正直、まだやりたい気持ちはもちろんありましたし、まだまだやれるんじゃないかなっていう気持ちもありましたけども、昨年、今年とたくさん試合にも出させてもらって、その中で自分がしっかり結果を出せなかったので、客観的な目で見てもちょっと厳しいのかなと思いました」

 思えば波瀾万丈の野球人生だった。東北高時代は左腕から繰り出す150キロ超のストレートで注目され、2年生の時に春の甲子園に出場。2002年のドラフトでは1巡目で近鉄(のちにオリックスと合併)と競合の末、ヤクルトに引き当てられた。この時、抽選に外れた近鉄が1巡目で指名したのが、現在はヤクルトに在籍している坂口智隆である。

 入団時の登録名は本名の高井雄平。当時はメジャーでプレーしていた石井一久(現楽天GM兼監督)がヤクルト時代に着けていた背番号16を与えられ、高卒1年目から先発17試合を含む27試合の登板で5勝6敗、防御率5.03の成績を残した。

 しかし、この1年目の勝ち星を超えることのないまま、2006年にヤクルトに復帰した石井が16番を取り戻したことで雄平の背番号は「22」に変わり、時を同じくしてメジャーから帰ってきた高津臣吾(現ヤクルト監督)が翌2007年はその22番を背負うと、今度は「41」へと変えられた。この年は救援で自己最多の52試合に投げるも、その後は一軍での登板機会は激減する。

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「ピッチャーの時は苦しかったんです」