プロ野球史に残る歴代ナンバーワンの名監督は誰か?
【写真】「平成で最もカッコいいバッティングフォーム」はこの選手!
通算勝率では鶴岡一人(南海)の.609(1773勝1140敗)、日本一の回数では川上哲治(巨人)の11回がトップ。両人とも稀代の名将であることに異存はないだろう。
そして、通算勝率で1位・鶴岡、2位・川上(.591)に次ぐ3位は、1981年から3年間、89年から4年間の2度にわたって巨人の監督を務めた藤田元司(.588)だ。
計7年間でリーグ優勝4回、日本一2回。V逸の年も2位2回、4位1回と安定した成績を残した。
2期とも次期監督への“つなぎ役”のイメージも強かったが、いずれも世代交代期のチームを再建し、常勝チームに生まれ変わらせた藤田監督は、歴代屈指の名将と呼ぶにふさわしい存在だった。
最初の監督就任は、長嶋茂雄監督の解任騒動直後だった80年オフ。国民的英雄に対する冷たい仕打ちにファンが猛反発し、読売新聞の不買運動が起きるなど、最大級の逆風が吹き荒れていた。加えて、“不動の4番”王貞治が現役を引退。当初「荷が重過ぎる」と難色を示したのも無理はなかった。
だが、「人に頼まれるのは頼りにされているからで、望まれている人間だという証拠でもある」(自著「藤田元司の情のリーダー学」ごま書房)と熟考の末、監督を引き受けた。
あえて火中の栗を拾う覚悟の英断に、運も味方する。就任早々臨んだドラフト会議で、4球団競合の原辰徳(東海大)を見事引き当てたのだ。人気者のスーパールーキーの加入は、重苦しい空気を明るく変えた。
「守りの野球」を掲げた藤田監督は、西本聖、江川卓、加藤初、定岡正二の先発4本柱にリリーフエース・角三男らの強力投手陣を形成。王助監督、牧野茂ヘッドコーチとのトロイカ体制も、三者三様持ち味を生かし、チームに好影響を与えた。
王が抜けた打線も、打率.322の中畑清、22本塁打の原に加え、篠塚利夫が首位打者、松本匡史が盗塁王を争うなど、世代交代が急速に進んだ。