現役時代から直情型として知られ、“瞬間湯沸かし器”の異名もとった藤田監督だが、試合で選手がミスをしてもグッと堪え、個人名を挙げて批判することはなかった。選手を叱るときは、人目のない場所に呼び、1対1で話し合った。

 そんな気配りに満ちた選手操縦法も功を奏し、81年は2位・広島に6ゲーム差で優勝。日本シリーズでも日本ハムを4勝2敗で下し、V9以来8年ぶりの日本一を実現した。

 そして、83年のリーグVを置き土産に、王監督にバトンタッチ。わずか0.5ゲーム差で中日の後塵を拝した82年にも優勝していれば、3連覇も夢ではなかった。これほどの実績を残せば、当然“再登板”の機会もめぐってくるというもの。

 王監督解任直後の88年オフ、藤田監督は前回同様、下り坂のチームの再建を託され、再び巨人を率いることになった。

 2期目も「守りの野球」をスローガンにした藤田監督は、斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄の先発3本柱を軸に、「競り勝ちできるチーム」を推進。原をレフトにコンバートし、西本を放出して強気なリードをする捕手・中尾孝義を中日から獲得するなど、大幅なチームの体質改善を行い、1年目でリーグ優勝と8年ぶり日本一を達成した。

 同年20勝を挙げた斎藤とは、前回の監督時代から浅からぬご縁があった。入団半年後、斎藤が2軍首脳陣から内野手転向を打診された矢先、たまたま練習を見に来た藤田監督が「横から投げてみろ」と指導すると、速球が伸びるようになり、投手として一本立ちをはたしたのだ。

 監督復帰後、気の弱さが災いして結果の出ない斎藤に、「お前は気が弱いのではない。慎重なだけなのだ」と自信を持たせるように諭し、試合でも「お前を信頼している」と態度で示すことによって、エースに成長させた。まさに“藤田マジック”である。

 これまた“マジック”として記憶に残っているのが、チームの勢いに陰りが見られた9月2日のヤクルト戦でのサプライズだ。

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