楽しい話が多かったが、中村さんが話す現実は厳しかった。

「哲さんが話した、『私は終わりの始まりだ、と思っています。残念ながら今のやり方では未来はない』という言葉が強く心に残っています」

 それから、加藤さんはコンサートでの募金活動を続け、日本とアフガニスタンでの交流が続いたが、哲さんは帰らぬ人となってしまった。

 でも、ここでじっとしてはいられない。この思いを次に伝えなければならない。中村さんが残した膨大な記録や、何冊もの著書を読み、さらに世界地図を広げ、足跡を追って、21年8月、『哲さんの声が聞こえる 中村哲医師が見たアフガンの光』(合同出版)を出版した。

「そうそう、アフガニスタンは砂漠で緑が少ないからこそ、みんな花が大好きだってお話しされてました。哲さんが建てたジャララバードの病院にはあふれるように花が咲いた素敵なバラ園があるんです。そのバラ園の写真が載ったカレンダーをいただきました。そこには『ジャララバードからバラ百万本送ります』と書いてありました」

 そう懐かしんだ。

 21年は加藤さんにとって大きな意味を持つ年でもある。それは代表曲「知床旅情」のヒットから50年でもあるのだ。「知床旅情」はもとは森繁久彌さんが作詞・作曲した森繁さんの歌だった。

「じつは、『知床旅情』を後に夫となる藤本敏夫が私のために歌ってくれたことがあるんです。東大の卒業式がボイコットされた後、これまでの歌手としての自分がむなしくなっていた、そんなときでした」

 加藤さんは、藤本さんが朗々と歌う「知床旅情」に打ちのめされた。「この人の歌にはかなわない。この歌のように私自身の歌にたどりつきたい、と強く思ったのです」。そこから加藤さんと藤本さんの交際が始まった。

 それからの1年、加藤さんは「ひとり寝の子守唄」で第11回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。さらに森繁久彌さんとの出会いがあった。

 森繁さんは、加藤さんの歌う「ひとり寝の子守唄」を聴き、自分と同じ気持ちで歌っていると絶賛した。

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