移動のときもグリーン車からみんながいる指定席に移動してだべって、降りるときにグリーン車に荷物を取りに行っていたからね。結局、全日本に入ってから辞めるまで、ずっとその待遇は変わらなかった。馬場さんも契約を重んじるから、森岡さんとの約束をちゃんと守ってくれたんだ。もっとも、俺がアメリカ修行のときのファイトマネーをまったくもらっていなかったから、その金が使われていたのかもね(笑)。
俺がプロレスラーになってからも森岡さんとは会場でちょこちょこ会うことがあったけど「おかげさまでプロレスラーとしてやっていけています」なんて堅苦しい挨拶が好きな人ではないからね。穏やかで優しい感じなんだけど「僕はねぇ、君たちとは違うんだよ、頭が」なんて俺たちをからかったりする人だったよ。
それからもう一人、名前がどうしても思い出せないんだけど、日刊スポーツの若い記者。俺と同い年くらいだったと思う。彼も押尾川騒動で俺が明日にでも部屋を出なきゃいけないとき、「天龍さん、荷物どうするんですか?」と心配してくれて、困っていると伝えたら、次の日に軽トラを借りてきて引っ越しを手伝ってくれたんだ。当時のソ連大使館の裏に住んでいた“おネエちゃん”のマンションに一緒に荷物を運んでね(笑)。サンケイスポーツに「天龍がプロレスに転向する」とスクープされた後だし、日刊スポーツの彼からしたら、俺はスクープネタもなにもないんだよ。それなのに、引っ越しだけを手伝ってくれて、本当にあのときは助かったよ。今でもその近くを通ると「あのとき、部屋を追われて逃げるようにおネエちゃんのマンションに転がり込んだんだったな」と思い出すよ。
それからプロレスラーになって、最初に印象に残っているのは当時国際プロレスで解説をしていた菊池孝さんだ。馬場さんを“馬場ちゃん”、猪木さんを“猪木”と呼べる数少ない人物の一人で、馬場さんが巨人軍時代に、試合で投げているのを観ているという貴重な人だ。国際プロレスがなくなると、全日本に来ることが多かったね。「馬場ちゃんは好きだけど、猪木は嫌い」って(笑)。猪木さんを呼び捨てで嫌いって言う珍しい人だけど、優しくて、いろいろな知識をいっぱいもっている人。記者の中には特に若い選手の記事を“書いてやっている”という態度の人もいるけど、菊池さんは誰にでも同じ、優しかったよ。