天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
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 50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「記憶に残る記者とアナウンサー」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。

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 相撲時代の記者で一番印象に残っているのは、森岡理右さんという方。この人は後に筑波大学の名誉教授になる人なんだけど、まだ若い衆だった俺からしてみれば、横綱の大鵬さんとタメ口で親しそうに話しているし、大麒麟さんを「コンちゃん」とあだ名(大麒麟さんは顔がキツネに似ていたからこう呼ばれていたんだ)で呼んだり、巡業に来ても、ちゃんこを食べて昼寝をする大鵬さんの横で一緒に寝たりしている「なんなんだ!? この人は!?」だった。

 そんな森岡さんは、俺のプロレス入りの道筋を作ってくれた人。きっかけは1975年の「押尾川騒動」のときだ。筑波で巡業があって、その帰りの電車に青葉城と二人で乗っていたら、ばったり森岡さんと車内で会ったんだ。「お前、押尾川部屋に行く、行かないで揉めているんだろう?」と話しかけてきて「なんだか、居づらくてしょうがないです」って話をしたら、「じゃあ、プロレスに行けばいいじゃん。若いんだし、からだもデカいんだから」と言って、さらに「俺が馬場ちゃんに紹介してやるよ」と言われたときは驚いたね。「どうして、ジャイアント馬場が出てくるんだよ!」って。森岡さんはどこにでも顔が利いたんだね。それからは「馬場ちゃんが顔を見たいってよ」と、トントンと話が進んで、全日本プロレスに入ることになったんだ。もし、あのとき森岡さんと電車で会ってなければ、プロレスラー・天龍源一郎はいなかったかもね。

 その契約の席でも森岡さんが馬場さんに「天龍は幕内まで行った力士だから、ファイトマネーは1マッチ〇万円、移動はグリーン車、宿泊は一人部屋で、馬場ちゃん頼むよ」と、プロレスの右も左も分からない俺の代わりに段取りまでしてくれたんだ。でも、最初はありがたかったけど、俺がプロレスで全然芽が出ないときも先輩を差し置いてグリーン車や個室の部屋を使っていることが、後でずいぶん重荷になったもんだよ(笑)。

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日刊スポーツの記者が引越しの手伝いを