渋沢家の元住宅「中の家」。外観のみ見学可能で、近辺に尾高惇忠生家、渋沢栄一記念館など栄一ゆかりの史跡が集中している。記念館の見学は事前予約が必要(写真:埼玉県深谷市提供)
渋沢家の元住宅「中の家」。外観のみ見学可能で、近辺に尾高惇忠生家、渋沢栄一記念館など栄一ゆかりの史跡が集中している。記念館の見学は事前予約が必要(写真:埼玉県深谷市提供)

 カフェのスタッフは、小学校などで出前体験をすることも多いという。鼓笛隊の小学生がスカーフを染めたり、中学生が新入生に贈るマスクを作ったりと、

大河ドラマと新1万円効果で、地元の子どもたちにとっても伝統産業の藍染めが身近になりました」(高倉さん)

 市内にはこのほか、栄一のいとこ、尾高惇忠と、惇忠の妹で栄一の最初の妻、千代の生家など関連史跡が数多く残されている。ドラマの衣装などが展示された「青天を衝け 深谷大河ドラマ館」(22年1月10日まで開設)も見どころの一つだ。

「藍玉づくりも養蚕も、藍葉の農家や繭を出荷する製糸業者など、多くの人との関わりが不可欠です。関係性を大事にし、他人と協力し合って物事を成し遂げてきた栄一の人となりは、生家の営みを通じて築かれたのではないでしょうか」

 こう話すのは、次に訪ねた渋沢史料館(東京都北区。見学は要事前予約)の川上恵副館長だ。

「彼は生家と郷里を大事にして、晩年に何回も訪れています。生まれ育った家と地元を支えた藍玉製造、養蚕という仕事に終生、感謝と尊敬の念を抱き続けたと思います」(川上副館長)

■維新後も知識を生かす

 生家で培われた知識は明治維新後も生かされた。栄一ら財政人の談話を集めた『世外侯事歴維新財政談』に、こうある。

「養蚕について説明すると、大隈(重信)さんが『君はほらを吹くのか』と言うので『ほらじゃない、私はよく知っています』『ならば君を煩わそう』ということで、私が掛りを仰せつかった」

 栄一は富岡製糸場設置主任として設立に参画。惇忠は初代場長に就き、惇忠の長女ゆうは14歳で第1号の製糸工女となった。

 史料館が立つのは飛鳥山公園内の渋沢邸跡地。園内には、栄一の喜寿を祝って贈られた洋風茶室「晩香廬(ばんこうろ)」、80歳の祝いに贈呈された「青淵文庫(せいえんぶんこ)」もある。

 栄一は1867年、パリ万博使節団の一員としてフランスへ洋行した。「ホテルの給仕などが着たと思う燕尾服(えんびふく)の古手一枚」(栄一著『雨夜譚(あまよがたり)』)を急ごしらえでととのえたが、外国人随行員に「その服装はあまりにおかしい」と言われ、きまりの悪い思いをしたと、孫の市河晴子が書いている。帰国後は洋装も板につき、公的な場には蝶ネクタイとフロックコート姿で臨むことが多かった。

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