はたしてこうした問題は、信長による正親町天皇・朝廷への圧力だったと言えるのだろうか。三職推任問題とは、信長が本能寺の変直前に「関白・太政大臣・将軍」のいずれかに推挙するよう朝廷に強要したとする騒動のこと。しかし、そもそも推任を言い出したのが朝廷側からなのか、それとも信長からなのかは、この問題を記す『天正十年夏記』の解釈によって真っ二つに分かれていて、いまだ結論は出ていない。
天皇大権(天皇固有の権能)とされる暦の選定について、信長と朝廷の間にトラブルがあったとするのが、改暦問題である。天正十年には「閏12月」があるのではないかと信長がクレームをつけたのは事実だが、むしろ天皇を尊重していたから暦の正確さにこだわったとの解釈もあり、信長が天皇大権の侵害を意識していたとする証拠もない。
馬揃えについては、この軍事パレードが天皇や朝廷を威圧するためだったとの解釈もあるが、一方で正親町天皇は自ら望んで馬揃えを観覧したとの説もあり、近衛前久が馬術の腕前を披露したことなどを踏まえ、朝廷へのプレッシャーだったとの見方は現在では後退している。
信長は正親町天皇に誠仁親王への譲位を強要し、正親町がこれを拒否したために確執が生じたとする説もある。しかし、中世以来、天皇は生前に譲位して天皇家の家長である治天(の君)となるのが常態だった。たまたま正親町の前3代の天皇( 後土御門・後柏原・後奈良)は即位式を挙行したり、新たに上皇の住まいとする仙洞御所を造営する費用がなかったので譲位できなかったのだ。つまり、正親町は譲位を望んでいたのであって、信長が強要したという事実は存在しない。
また、晩年の信長は自らを神格化しようとしていたとルイス・フロイスの記録に見られることから、天皇の存在が脅かされたと解釈。正親町天皇との確執の根拠と考える説もあるが、国内の記録にはまったく見られない記事であり、信憑性は低いと考えられている。
このように、正親町天皇や朝廷が本能寺の変を引き起こしたとする説は、現在のところ否定的にとらえられている。
(文/安田清人)