本能寺の変の背後に、光秀を教唆した黒幕は存在したのか──?「戦国最大のミステリー」として、古今の歴史家や市井の歴史ファンを悩ませてきたテーマといえよう。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では、状況証拠、動機、事件の結果得た利益等から「容疑者」を多角的に考察した。数回に分けて「黒幕」を検証する。本当に、信長を殺ったのは誰だ!?
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【黒幕説/検証 1】足利義昭
■室町幕府最後の将軍が見せた打倒信長の策謀は事実なのか?
本能所の変の裏には、明智光秀を背後から動かしていた黒幕がいたのではないか――。そう考える「黒幕説」のうち、おそらくもっとも信憑性が高いとされているのが、足利義昭黒幕説であろう。
義昭は元亀四年(1573)、織田信長によって京を追われ、室町幕府はこれをもって滅亡したと考えられてきた。しかし、実際には将軍職を辞したわけでもないし、誰か別の人物が将軍に就任したわけでもないので、義昭は形式的には本能寺の変が起きた天正十年(1582)の段階でも征夷大将軍であった。
京を追われた義昭は、毛利氏の庇護下に入り、備後国鞆の浦(広島県福山市)に亡命政権を樹立していた。これを「鞆幕府」と呼ぶ。義昭は幕府関係者を引き連れていて、奉公衆や奉行衆を任命していた。そして、自らの京復帰を手助けするよう、諸大名に書面を送るなどの「外交」活動もしていた。「鞆幕府」の評価については、形式的なモノに過ぎず実効権力とは言えないという見解もあるが、一部の大名に対して影響力を持っていたことは事実であろう。
もともと光秀は、信長に仕える前、越前朝倉氏のもとに身を寄せていた当時から足利義昭との関係をもち、一時は信長と義昭に「両属」する関係だったと指摘されている。永禄十三年(1570)正月二十三日、信長は義昭に対し五カ条の条書を突き付けている。これは将軍である義昭の行動を規制し、政治の実権が信長にあることを公言する文書だった。