神田正輝との結婚、出産後初となる全国ツアーで歌う松田聖子(1987年)
神田正輝との結婚、出産後初となる全国ツアーで歌う松田聖子(1987年)
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 松田聖子が「NHK紅白歌合戦」の出場を辞退した。ひとり娘の神田沙也加が急逝したショックから立ち直るには、やはり時間が足りなかったのだろう。

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 しかし、世間では出場するのではという見方もかなりあった。それは彼女のイメージによるものだろう。強い女、どんなスキャンダルもものともせず、幸せなオーラをふりまくスター、という点において、彼女の右に出る者はいない。

 1980年の歌手デビュー以来、彼女はそういうイメージを築き上げてきた。たとえば、横浜銀蝿一家のバンド・紅麗威甦のデビュー曲「ぶりっこROCK’N ROLL」(82年)は聖子ブームに便乗した曲だ。そこには「かまちんカット」とか「涙出さずに泣いた顔」といった彼女を連想させる歌詞がある。

 また、85年には結婚目前といわれていた郷ひろみと破局。彼女が単独で開いた会見では「生まれ変わったら一緒になろうね」というフレーズが話題になったが、郷はのちにそんな約束はしていないとして「僕が虫に生まれ変わっていたらどうする気だろう」と苦笑した。彼女は破局の5カ月後、神田正輝と結婚。翌年には、沙也加が誕生するわけだ。

 ブレークした途端「ぶりっこ」「うそ泣き」などとやゆされ、数年後には「魔性の女」「スキャンダルの女王」とまで呼ばれるようになった聖子。どこまでが芸でどこからがプライベートなのか、虚像と実像の境目がないかのような生き方は、その音楽に負けず劣らず魅力的だった。

 そして、そのイメージを決定づけたのが「ママドル」となったことである。結婚はもとより、出産してもなおアイドルであり続けるという前人未到の生き方は、芸とプライベートの区別が曖昧な彼女ならではのもの。これにより、彼女は前時代のスター・山口百恵を超えたといえる。

 というのも、スターの条件とは、誰もがなかなかできないことをやってみせることだからだ。百恵は結婚を機に、未練を見せずに完全な引退をすることでそれを達成したが、その選択そのものは古風で、芸能人から一般人に戻るという単純明快なものだった。

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プライベートも「芸」のようになっていった