哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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旧友平川克美君が店主であるところの隣町珈琲での新年会に誘われて上京してきた。「平川文化圏」と呼ばれるネットワークに連なる諸兄諸姉が一堂に会し、まことに愉快な一夕であった。イスラーム法学者と医療経済学者と舞踊家と女流義太夫三味線と浪曲師と編集者と疫学者が同じテーブルで懇談するという、よそではなかなか見ることのできない風景は平川君の魔術的な人脈形成力を窺(うかが)わせる。
私が平川君と知り合ったのは小学校5年生の時である。転校した先のクラスに彼がいて、すぐに「友だち認定」してくれた。爾来(じらい)60年余辱知の栄を賜り、一緒に起業し、のちには何冊も共著を出した莫逆の友である。
平川君とはかつて一度も言い争いというものをしたことがない。彼が何を考えているか実はよくわからないからである。
相手の考えていることが手に取るように「わかる」と思うからこそ「それは違う」という手厳しい言葉も出てくる。11歳の時から「何を考えているのかよくわからないがまことに愉快な男である」というくらいのゆるい認識なので、彼が何を言っても何をなしても、「それは違う」という言葉が出てこない。小学生の頃から鉄条網を自転車でジャンプしたり、鉄棒の大車輪で脚を折ったりすることが「ふつう」という多動的男子を駆り立てている衝動がいかなるものであるかは、私のような文系虚弱児には端から理解の外だったのである。
先方もおそらく同じだったのだろうと思う。お互いに相手のことを「よくわからないが愉快な男だ」と思っており、かつ「約束したことは必ず守る男だ」ということは経験的に知っていた。それだけあれば生涯の友とするには十分だろうと私は思う。
長じてから私が「共通の祖国を持たない他者とも対話し協働し<善きもの>を生み出すことは可能である」というエマニュエル・レヴィナスの理説に「そうだよな」とすぐに頷(うなず)いてしまったのも、「理解と共感で結ばれた同質的な集団」を理想とする政治的立場に対して懐疑的であることを止められないのも、たぶんにこの経験が与(あずか)っていると思う。また来年もお互いに息災で新年を迎えたい。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2022年1月17日号