ザ・コブラは初代タイガーの後釜と期待されたがレスラーとしては消化不良で終わった。しかし84年2月9日・大阪府立体育会館、小林とのNWAジュニア王座戦は忘れられない。小林は試合直後からマスクに手をかけ両者フェンスアウト後にはマスクを完全に剥ぎベルトを強奪。場内からは「(顔を)見せろ」のコールが出たほどだった。ザ・コブラはその後もヒロ斎藤にもマスクを剥がされるなど“やられ役”だった感も否めない。「キング・コブラになって帰ってくる」と最後に残した名(迷)セリフも忘れられない。

 その後の小林は長州力率いる維新軍団の一員としてジャパンに参加し全日本マットに上がる。マジック・ドラゴン、2代目タイガーなどと対戦するたびにマスクに手をかけた。しかし初代タイガーの時のような大きな衝撃を与えることはできなかった。その中で86年1月28日・東京体育館でマスカラスのマスクに手をかけたことは話題になった。IWA世界ヘビー級王座戦という実質の花試合、マスク剥ぎはお約束でもあったが場内は大きくどよめいた。新日本へ戻ってからもブラックタイガーのマスクに手をかけ現役引退まで“らしさ”を失うことはなかった。

 小林以降はマスク剥ぎを専売特許とするレスラーは現れず名シーンが生まれにくくなっていた。そんな中で19年9月16日の新日本・鹿児島で鈴木みのるが獣神サンダー・ライガーのマスクを剥いだことは大きなインパクトを与えた。引退間近でお別れムードが漂うライバルに「30年間、インチキの包装紙をつけて来たヤツ」と罵倒した。ライガーも「オマエは一線を越えた」と応戦、9月22日・神戸では自らのマスクを脱いだうえで毒霧や反則攻撃を繰り返しての敗北を選択した。その後10月14日・東京・両国での一騎討ちへつながる物語の中でマスク剥ぎは大きなスパイスとなった。

 ライガーのように自ら試合中にマスクを脱いだ選手は他にもいる。90年5月14日、全日本・東京体育館で2代目タイガーが三沢光晴になったシーンは今後も語り継がれるだろう。84年にマスクを被った三沢だったが選手大量離脱などで全日本が揺れる中、団体と個人の未来を見据えた中での行動だった。その後、三沢としてプロレス史に残る大活躍をしたことを考えると大英断だったと言える。

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自ら「マスクを剥ぐ」選手も!