これに目をつけたのが、山下大輔新監督の下、貧打解消と最下位からの脱出を目指す横浜だった。“不動の4番候補”と期待し、推定年俸3億2000万円の3年契約で獲得した。
ところが、春季キャンプ中の2月7日、スライディング練習中に右膝半月板を負傷したのが、ケチのつき始め。手術後、3月14日のオープン戦、ヤクルト戦でDHとしてスタメン出場をはたすも、術後の経過が良くないため、開幕後もしばらく2軍で調整することになった。
そんな紆余曲折を経て、5月14日の巨人戦でようやく1軍デビューしたのもつかの間、6月7日に左ふくらはぎ痛で再び2軍降格。コックスの“保険”として推定5000万円で獲得したタイロン・ウッズが本塁打を量産し、4番に定着したのも皮肉だった。
6月下旬に再検査とリハビリで帰国したコックスは、チームに復帰することなく、出場15試合、打率.200、1本塁打、1安打あたり3200万円というコストパフォーマンスの悪さで、シーズン後、契約を2年残して解雇された。その後コックスは、2年分の年俸やオプション破棄の違約金などでおよそ7億円を“何もせず”手にしたとされる。球団幹部も「不良債権処理」と嘆くほどの大損失となってしまった。
不良債権といえば、阪神も97年にマイク・グリーンウェル、99年にマイク・ブロワーズといずれも2年契約の選手を1年で解雇する羽目になったのは、ご存じのとおりだ。
日本で実績のある助っ人でも、複数年契約の難しさを痛感させられたのが、81年のチャーリー・マニエルだ。
78年に39本塁打、103打点を記録し、ヤクルトの球団初Vに貢献したマニエルは、機動力と守備力を重視する広岡達朗監督の構想から外れ、近鉄にトレードされたが、DHとして79、80年と2年連続本塁打王に輝き、連覇の立役者となった。
だが、80年オフ、複数年契約を要求して近鉄との交渉が決裂。自由契約に。
すると、渡りに船とばかりに、武上四郎監督に替わり、助っ人の大砲を探していた古巣のヤクルトが獲得に動き、推定年俸5000万円の2年契約で再入団させた。