苦笑してマウンドに上がった河野は、1死二塁のピンチを無失点で切り抜けたが、9回にも1死から連打を浴び、一、二塁。すると、長嶋監督がベンチを飛び出し、「ゲンちゃん、思い切って投げろ。ゲッツー、ゲッツー」と檄を飛ばした。

「ゲンちゃんが(8月の苦しい時期から)ここまで支えてきたんだから」と、最後までマウンドを託した指揮官の信頼を意気に感じた河野は、ブラッグスを本当に遊ゴロゲッツーに打ち取り、チームを同率首位に押し上げた。本人も「この場面が一番印象に残っています」と回想している。

 ちなみに、この日勝ち投手になったのは、90年から中継ぎに転向した水野雄仁。1年ぶりの白星に、元ドラ1の甲子園優勝投手は「4、5年前から勝ち負けは気にしなくなりました。とにかくチームが勝てばいいんです」と脇役に徹した言葉を残している。

 2000年代初頭に彗星のように現れた若きリリーフエースが、條辺剛だ。

 高卒2年目の01年、19歳の條辺は、4月3日のヤクルト戦で4対3の6回から工藤公康をリリーフすると、7回にペタジーニを全球直球勝負で三振に打ち取るなど、4イニングを1与四球のみの無安打無失点に抑え、巨人の10代投手では史上初の快挙となるプロ初セーブを挙げた。

「最後まで不安だらけでした」とコメントも初々しいニューヒーローに、長嶋監督は「いよいよ出てきたな。新世紀の若武者が」と喜び、大きな期待を寄せた。

 その後も條辺は、開幕から13イニング連続無失点を記録するなど、46試合に登板し、7勝8敗6セーブの好成績を残した。

 原辰徳監督が就任した翌02年も、中継ぎとして自己最多の47試合に登板し、日本一に貢献したが、03年以降は、2年目の夏に痛めた肩が悪化。衝撃デビューをはたしたころの輝きは2度と戻ることなく、05年を最後に24歳でユニホームを脱いだ。

“最強セットアッパー”山口鉄也とともに中継ぎ陣の柱として勝利の方程式を形成したのが、越智大祐だ。

暮らしとモノ班 for promotion
なかなか始められない”英語”学習。まずは形から入るのもアリ!?
次のページ
短かったが記憶に残る越智の熱投