活躍した期間は短いがファンの記憶に強く残る巨人・越智大祐
活躍した期間は短いがファンの記憶に強く残る巨人・越智大祐
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 巨人の中継ぎ投手といえば、鹿取義隆、角三男、山口鉄也ら、長年にわたって活躍したリリーフエースの名が挙がる。その一方で、活躍期間こそ短かったものの、連投に次ぐ連投でチームを支えた“名脇役”も少なくない。

【写真】プロ野球“史上最強のリリーフエース”といえば

 1990年代前半の第2次長嶋政権下で、セットアッパーとして抑えの石毛博史につなぐ“勝利の方程式”を確立したのが、橋本清だ。

 PL学園時代の87年、背番号10ながら速球を武器に、野村弘樹(元横浜)とともに春夏連覇に貢献。王貞治監督が「将来性のある投手を」と熱望し、ドラフト1位で巨人に入団した。

 だが、故障続きでなかなか1軍に上がれず、92年に1試合リリーフ登板しただけ。「長嶋(茂雄)さんが監督にならなければ、あのまま消えていたかもしれない」と振り返る。

 そして翌93年、長嶋監督が13年ぶりに復帰すると、橋本の運命も大きく開ける。2年連続52試合に登板。93年にはプロ初勝利を含む6勝を挙げ、94年には日本一になった。

「巨人に13年いて、故障もなくバリバリやれたのは、あの2年間だけ」。そんな不思議なめぐり合わせが、後の阪神の“JFK”など、球界に勝利の方程式を定着させることになった。

 長嶋巨人は96年にも最大11.5ゲーム差から奇跡の逆転Vを実現。今度は左腕4人の中継ぎから成る“レフティーズ”がクローズアップされた。

 川口和久、阿波野秀幸、宮本和知とともに、その一翼を担ったのが、日本ハムからFA移籍してきた河野博文だ。

 日本ハム時代に先輩から「北京原人に似ているから」と、“ゲンちゃん”のニックネームを貰った河野。長嶋監督も常に「ゲンちゃん」と呼び、一度も本名で呼んだことがなかった。

 勝てば広島と同率首位で並ぶ9月18日の横浜戦、2対1とリードの8回、長嶋監督が井上忠行球審に「ピッチャー、ゲンちゃん」と告げる。「河野でしょ」と井上球審が訂正しても、「いや、ゲンちゃんだ」で押し通す。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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