今でも忘れられないのは、研修医になったばかりのころに出会った、すい臓がん末期の患者。39歳と若くして病を患った方で、おなかに水がたまって歩くのもやっとという状態。その患者が「会社に行きたいので腹水を抜いてほしい。頑張って働いてお金をためて、苦労をかけた妻を海外旅行に連れていきたい」という。すでに余命1~2カ月という状態でしたが、主治医も奥さんも余命だけでなく、病名についても本人に伝えることを躊躇(ちゅうちょ)しており、結局本人は自分の症状を知らぬまま、あっけなく亡くなってしまったのです。「頑張っていれば、いつか旅行できる日が来る」と信じて、つらい治療に耐えていた本人があまりにかわいそうでした。今ではがんの告知はもっと一般的になっていますが、どんなにつらい事実でも、知っていたほうが納得のいく最期を送れるのではと強く思いました。
私が研修医だった20年前は、入院していると、いよいよ最期というときに、医療者が部屋に入って心肺蘇生が始まり、入れ替わりに家族は部屋の外に出されてしまうこともありました。もちろん、人は誰でも死ぬときには一人。それでも大切な人に手を握ってもらって、見守られながら最期を迎える選択肢がもっとあるべきではないかと思わずにはいられませんでした。
病院になくて自宅にあるもの、それは「生活」です。無機質な空間で、起床から就寝までスケジュール管理される生活、食べる楽しみとは程遠い食事──。病院という場所は、あくまで病気と闘う場所で、病気と“付き合っていく”段階に入ると、必ずしも適した場所とは言えません。自由に生活できる自宅で最期を迎えるということを、もっと多くの人が考えてもよいのではないでしょうか。
在宅医療を専門にすると決めたとき、いろんな先輩医師から「24時間365日態勢を一人でやるのは大変だぞ。よく考えろ」と言われました。確かに、常に患者の元に駆けつけられる態勢でいる必要があるため、風呂場にもスマホを持ち込み、旅行にも行けない日々です。それでも「家にいられてよかった」と言ってもらえるたびに、この仕事を選んでよかったと心から思います。
今、自分の死後を考えるエンディングノートがはやっていますが、それよりも「自分が死ぬまでにどうしたいか」ということをもっと考えてほしい。その上で、最期を迎える場所にも選択肢があることを知ってほしいと願っています。