私が本格的に在宅医療に開眼する転機となったのが、92年のこと。
(夫)「明日、旅に出るから、いつもの鞄と靴を用意してくれ」(妻)「どこに行くの? 私も連れてって」(夫)「今度は遠いところに行くから、君は家で待っていなさい」
これは末期がんで在宅療養していた70代の男性患者が、亡くなる前日に奥さんと交わした会話です。翌朝、往診を終えて帰ろうとする私に、奥さんが「男の人って最期までかっこつけるのね」と、この会話を教えてくれました。「夫が亡くなった」との電話が入ったのが、その2時間後。「すぐに行く」という私に奥さんは「主人はもう旅立ったから、目の前の患者さんを診てあげて。それから来てくださればいい」と朗らかに言うんです。その後、旅立った男性患者と対面すると、亡くなった顔がとても穏やか。夫を見守る奥さんの笑顔もまた、穏やかなものでした。病院での死は「死ぬときは苦しいのが当たり前」、遺族にかける言葉は「ご愁傷様」です。その世界しか知らなかった私は、この穏やかな死のあり方に「なんだこれは」と強い衝撃を受けたのです。
病院は安心できる場所のようで、実は病気と闘うストレス空間。患者の「暮らし」をみるのではなく「病気」だけをみる場所です。それと対照的に「住み慣れた暮らしの場所」は、癒やしの空間。生まれるところは決められませんが、死ぬところは自分で決められます。ところ定まれば、心定まる。その人らしい暮らしの中に、希望死・満足死・納得死があることを、数々の看取りを経験する中で実感します。
◆なじみの中で迎える「いい仕舞い」一つでも多く支えられるように
小笠原望(大野内科理事長)
高知県南西部の町で、外来診療に加え、かかりつけ医として在宅医療で地域医療を支える。高知市から約100キロという、海・川・山の大自然に囲まれたこの土地では、死はタブーでも湿っぽくもないという。死の考え方にも、独自の捉え方があるそうだ。