首相にズバッと切り込んできたジャーナリスト、田原総一朗氏の「宰相の『通信簿』」は今回、小渕恵三、森喜朗の両氏。親しみやすさは共通するも、かたや晩年苦しんで急逝、かたや内閣発足時から批判の的となり苦しんだ。(一部敬称略)
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官房長官として新たな元号を発表し、「平成おじさん」なんて呼ばれた小渕恵三が1998年に首相となった。僕は小渕に対し、三つのことを提言した。
まずは、日韓問題。かつて佐藤栄作と朴正熙時代の会談でケリがついたとされてきたが、全く違うと。会談があった当時、韓国は財政的に貧しかったから、日本の無理難題を聞かざるを得なかった。韓国は“反日感情”がずっとあった。それで小渕に「日韓で“対等”の首脳会談をやるべきだ」と言った。
そして、小渕と金大中大統領との会談が実現した。このときに金大中が初めて「和解」という言葉を持ち出した。まさにこれは、対等であるからこそだった。これで日韓関係が本当に良くなった。もともと朴政権下の73年、金大中氏が日本でさらわれ、殺されかけた。いわゆる「金大中事件」ね。僕は、彼を「救う会」のメンバーでもあったから仲がよかった。
二つ目は沖縄問題。米軍の普天間飛行場(宜野湾市)の移設先として、名護市辺野古の名前が浮上していた。移設先問題をめぐり、僕は小渕に「日本の在日米軍基地が沖縄にあまりにも集まりすぎている」と訴えた。沖縄県民の不満は多い。さらに問題だと感じていたのは、沖縄以外に住む日本の人たちは、沖縄を蔑視しているのではないかということだった。非常に良くない。これでは普天間問題なんかは解決できない。だから、「主要国首脳会議(サミット)を何としても沖縄でやるべきだ」と言った。
僕だけでなく、何人もの関係者が沖縄開催を提案した。すると本当に、九州・沖縄サミットが決まった。もちろん、沖縄での開催にはずいぶんと反対の声もあっただろうけど、小渕が“断固沖縄”にこだわったのね。だから「すごいな」と思ったわけ。押し切ったんだから。自分が「やらなきゃいけない」という強い思いがあったんだろうね。