阪急の後身・オリックスも、ブレイクする前のイチロー(当時は本名の鈴木一朗)が、横浜から佐々木主浩との交換トレードを打診されていたという驚くべき秘話がある。

「4522敗の記億 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史」(村瀬秀信著 双葉文庫)によれば、93年オフ、高木豊ら6選手の解雇を目の当たりにした佐々木が「こんな球団ではやってられない」とトレード志願したことがきっかけだった。

「そういう話を聞いて、俺は出すのもやむなしと思った」という横浜・近藤昭仁監督は94年2月20日、宮古島でのオリックスとのオープン戦の際に、オリックスの新監督に就任したばかりの仰木彬監督に「おたくの鈴木一朗とうちの佐々木をトレードしませんか?」と打診したという。

 この試合に1番センターで出場したイチローは、8回に試合を決める逆転満塁ランニング本塁打を放つなど、5打数3安打4打点の大当たりとあって、近藤監督ならずとも触手を伸ばしたくなったはずだ。しかし、仰木監督は「まだ1年間見ていないから出せないな」と断ったという。この判断が大正解だったのは言うまでもない。

 もし、このトレードが成立していれば、イチロー、佐々木のどちらも移籍先で活躍した可能性は高いが、その一方で、後の“大魔神”を欠いた横浜は98年の日本一、イチロー不在のオリックスは95、96年の連覇のいずれも難しくなったかもしれないと予想する声も多い。

 横浜といえば、阪神時代の新庄剛志との交換トレードが密かに進行していたエピソードでも知られている。

 95年オフ、新庄は野球観の異なる藤田平監督との確執などから、契約更改の席で「阪神を辞めたい。環境を変えてほしい。ダメなら野球を辞めるしかない」とトレード志願。実は2日前に郷里・福岡で行われた後援会のパーティーでも「阪神を辞めて横浜に行きたい」と漏らしていたという。

 だが、球団側が「選手のわがままを聞いてトレードに出せば、次は違う選手がトレードに出してくれということになる」(三好一彦球団社長)と突っぱねると、新庄は「野球に対するセンスがないって見切った」と突然引退を宣言した。センス云々発言は、「どうせ辞めるなら、人のせいにはしたくないから」という新庄ならではの考えからだった。

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