トレードが実現するまでには、さまざまな紆余曲折がある。球団同士の交渉は基本水面下で行われることから、これまで不成立に終わったトレードの中には、思わずビックリの大物選手が俎上に上がっていた例も少なくない。
巨人若手時代の王貞治がトレード候補に挙がったのが、1961年のオフ。相手は阪急のエース・米田哲也だった。
「日本プロ野球トレード大鑑2004」(ベースボールマガジン社)によれば、同年暮れ、巨人のほうから交換トレードを持ち掛けてきたという。
水面下の交渉なので、実態は不明だが、両球団が11月下旬から12月下旬にかけてトレード交渉を続けていたのは、紛れもない事実だ。
二塁手に人材を欠く巨人は、長嶋茂雄と立大時代の同期・本屋敷錦吾の獲得に動き、王のライバルだった一塁手・木次文夫を交換要員に用意したが、阪急が捕手の藤尾茂を希望して譲らないため、折り合いがつかず、12月22日ごろ、ご破算になった。おそらく、この時期に王と米田の話も浮上したのかもしれない。
だが、阪急側はけんもほろろに断った。同年、入団3年目の王は打率.253、13本塁打、72三振とまだ成長途上で、ホームランバッターとして覚醒するのは翌62年から。一方、6年目の米田は57、58、60年に20勝以上をマークするなど、通算110勝の大エースで、11月初めに大毎(現ロッテ)が申し入れてきた4番・山内一弘とのトレードさえも断ったほど。2年後にその山内と阪神のエース・小山正明の豪華トレードが成立し、“世紀のトレード”と騒がれたことを考えると、阪急が王を断ったのも無理はなかった。
後年、王が世界のホームラン王になったことから、当時の阪急幹部は「あとになって思えば、もったいないことをした」と悔やんだそうだが、もし王が阪急に移籍していれば、62年に巨人入りした荒川博コーチとすれ違いになり、一本足打法は完成しなかったはずだから、野球人生も違ったものになっていただろう。名伯楽と呼ばれた阪急・西本幸雄監督が、王をどんな打者に育てたかというシミュレーションも興味深い。