貴志川線への訪問は和歌山軌道線の付録のようなもの。先を急ぐ今回は車庫所在駅の伊太祁曽(いだきそ/2006年伊太祈曽に表記変更)までの往復に留めることにした。

伊太祁曽の車庫で撮影した片ボギー式のクハ801。1960年頃から放置されており、ポールからパンタグラフへの変更時期にボウコレクターを試用していた。(撮影/諸河久:1965年3月22日)
伊太祁曽の車庫で撮影した片ボギー式のクハ801。1960年頃から放置されており、ポールからパンタグラフへの変更時期にボウコレクターを試用していた。(撮影/諸河久:1965年3月22日)

 難読駅の伊太祁曽では、芸備鉄道→国鉄→和歌山鉄道と流転した写真のクハ801や旧片上鉄道のガソリンカー改造のクハ803など、貴重な中古電車群を記録できた。

海南界隈の見どころ「野上電鉄」

 伊太祁曽の撮影を終えて再び東和歌山駅に戻り、駅前から和歌山軌道線の海南行きに乗車。次の訪問先である野上電鉄と接続する野上電車前停留所まで約13kmの路面電車の旅を楽しんだ。

郷愁あふれる野上電鉄日方駅の情景。モータリゼーションの進捗と地方過疎化の波に翻弄されて、訪問から30年後の1994年4月に廃止された。(撮影/諸河久:1965年3月22日)
郷愁あふれる野上電鉄日方駅の情景。モータリゼーションの進捗と地方過疎化の波に翻弄されて、訪問から30年後の1994年4月に廃止された。(撮影/諸河久:1965年3月22日)

 写真が野上電鉄の起点である日方(ひかた)駅の情景で、駅前の売店や改札口のたたずまいに郷愁を覚えた。頭上の色褪せた観光看板は、県立自然公園の生石高原(おいしこうげん)に向うハイカーの下車駅として終点の登山口駅が賑わった時代を物語っている。

 日方駅で構内撮影の許可をいただき、モハ20型やモハ30型にカメラをむける。かつて阪神電気鉄道(以下阪神)の主力として活躍した車体を譲り受け、中古の台車と組み合わせて再生した車両だ。

日方駅を発車して登山口に向うモハ27。約200m先の連絡口駅(国鉄海南駅への連絡ホーム)で停車するため、眼前をゆっくり通過していった。日方~連絡口(撮影/諸河久:1965年3月22日)
日方駅を発車して登山口に向うモハ27。約200m先の連絡口駅(国鉄海南駅への連絡ホーム)で停車するため、眼前をゆっくり通過していった。日方~連絡口(撮影/諸河久:1965年3月22日)

 別カットが日方駅を後に登山口方面に走るモハ27。阪神時代は701型を名乗り、尼崎海岸線などの支線で稼働していた。画面右奥に野上電鉄の検修庫と右端に増結用のクハ101が写っている。筆者が阪神を訪れたのは1964年で、すでに大型車の天下になっており、野上電鉄で阪神小型車のアフターイメージを満喫できた。

グーグルマップで「57年前」特定

 次の被写体は海南市内を走る和歌山軌道線の路面電車だ。先ほど下車した野上電車前停留所に戻り、次々に走ってくる路面電車の撮影を楽しんだ。ここから和歌山方面の日方と東浜停留所の辺りまでカメラハイクした記憶がある。半世紀を経た今となっては画面に写り込んだ諸情報を読み出しても、撮影地点を特定するのは難しくなっていた。

県道和歌山海南線の路上を走る東和歌山行き700型。背景には様々な業種の商店や飲食店が軒を連ねていた。電車左脇に見える「かまぼこなべ島」の縦看板が撮影地点特定のキーワードとなった。野上電車前~日方(撮影/諸河久:1965年3月22日)
県道和歌山海南線の路上を走る東和歌山行き700型。背景には様々な業種の商店や飲食店が軒を連ねていた。電車左脇に見える「かまぼこなべ島」の縦看板が撮影地点特定のキーワードとなった。野上電車前~日方(撮影/諸河久:1965年3月22日)

 次の写真は年季の入った海南の商店街を背景にして、東和歌山行きの700型を撮影した一コマだ。電車の左側に「かまぼこ なべ島」という看板文字が判読できた。グーグルマップに「海南市なべ島かまぼこ店」で検索をかけた。果せるかな、「鍋嶋かまぼこ店」でヒットし、旧日方停留所の手前北側に位置していた。ストリートビュー画像では、かまぼこ店周辺の家並は大きく変容したものの、背景の山並みは昔日のままだった。この検索により、撮影地点は野上電車前~日方であることを特定できた。

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