帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長
帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長
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 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「昔と今を比較してみた」。

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【進歩とは】ポイント
(1)家族だけでなく向こう三軒両隣の絆がとても固かった
(2)人々の胸には希望の灯火が点(とも)り躍動感にあふれていた
(3)一つ素晴らしいのは人生100年の時代になったこと

 86年間生きてきて、昔と今とどちらがいいのだろうかと比較してしまうことがあります。

 終戦の1945年、私は小学4年生でした。物資は窮乏を極めていましたね。一家団欒の夕食も米飯はなくて、芋を蒸したものが多かったです。でも家でしか食べられないので、夕食にはみんなが集まり、家族の絆がいやが上にも強まりました。

 家族だけではありません。向こう三軒両隣の絆も、それはそれは固いものでした。向こう三軒は文房具屋さん、乳母車屋さん、事務所風の家。両隣は時計屋さんと靴屋さんです。これはずっと後の話ですが、一人暮らしとなった私の父に、向こう三軒両隣の人たちが交代で酒の肴を含めた夕食を届けてくれました。

 私の家はお寺の門前通りにありました。この通りには上手から、洋品店、カメラ店、パン屋、呉服屋、ラジオ屋、製麺屋、八百屋、ミルクホール、銀行、酒屋、乾物屋、歯科医院、煙草屋、万年筆店、薬局、瀬戸物屋、理髪店、額縁屋、お菓子屋、鮨屋、米屋そしてわれら向こう三軒両隣が連なっています。

 この門前通りを一人で歩いてみると、えも言われぬ温かさを感じるのです。戦中戦後を苦労して生き抜いた連帯感が醸し出す“思いやり”がもたらす温かさです。

 乏しかった物資もダイナミックに回復していきました。記憶に残るのがコロッケの売り出しです。肉屋さん、乾物屋さん、お菓子屋さんで買えるようになりました。自家製なのに非常に旨かった。それがメンチカツに変わったのは、うれしかったですね。大戦の傷跡もようやく癒えて、人々の胸には希望の灯火が点っていました。躍動感にあふれたいい時代でした。

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