2019年3月に連続した無罪判決のうち、この事件だけが、女性がけがを負ったこともあり傷害事件とされ、裁判員裁判だった。つまり無作為で選ばれた一般人の「常識」が、この判決を導いたのだ。
フラワーデモでこの事件について話してくれた人は、「常識」とは何だろう、と怒りを込めた静かな口調で言った。深夜、初めて出会った女性に対し自分の都合の良いように解釈しながら性的なことを強いる「常識」とは何だろう。「今すぐに射精したいから俺のために何かしろ」と聞くこともなく(実際に彼がしたのはそういうことだ)、相手の同意を得るような努力も一切せずに(たずねたら断られるのが分かるからだろう)、ただ怖がらせ、相手をフリーズさせ、戸惑わせ、判断力を失っているなかで性的なことを一方的に相手に強いることが、「常識」なのだろうか。
フラワーデモでは、多くの性被害者が声をあげてきた。性加害者のほとんどが成人男性であり、性被害者のほとんどが子どもと女性である。筋力ではかなわず、社会的な地位や信頼も加害者のほうがある。さらに男性の性に過剰に寛容な文化のなかで、被害者の声がまともに聞かれることは長い間なかった。#MeToo運動とは、そんな「加害者の常識」を、被害者側からみる世界を語ることによって、「被害者の常識」を、「常識」にしようという運動である。
静岡の事件は、被害者の常識からすれば、まるで違う世界になる。
深夜のコンビニでいきなり知らない男から声をかけられた。しつこく名前や電話番号を聞き、ついてこようとする。家が知られるのはイヤだから、適当に名前を言って、適当に電話番号を渡せばきっと帰れるだろう。ところが名前を言っても電話番号を教えてもつきまといは終わらない。話をしようと言われ、断ると怖いという思いから仕方ないと諦める。触られて気持ち悪いが、大きな声を出したりしたら何をされるか分からないから黙る。怖くて頭が真っ白になり、逃げ出したいが、自分よりも大きな男に抵抗したら何をされるか分からない。だから全て従い、その時間が過ぎるのを待つ。