86年の元日には無期限の活動休止を宣言。その直後に放送されたドキュメント「早すぎる伝説」(フジテレビ系)は飢餓感をあおられたファンの署名により、再放送された。本人はといえば、同年6月から12月にかけて渡米。87年の7月には全国ツアーを開始したが、9月に体調を崩し、残りのスケジュールは中止された。覚せい剤取締法違反で逮捕されるのは、この年の年末だ。

 88年2月には、執行猶予つきの判決により釈放。5月に一般女性と結婚した。6月には生涯唯一のテレビ出演となる「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)で復帰作のシングル「太陽の破片」を歌唱したり、9月に4作目のアルバム「街路樹」を発表したりした。

 89年には長男が生まれたが、目立った音楽活動はなかった。90年には5作目となる二枚組のアルバム「誕生」を発表したものの、それ以上に特筆すべきなのは年末に個人事務所を設立したことだろう。業界不信に陥っていた尾崎が最愛の母とともに設立した事務所だった。

 91年には、全国ツアーも行われたが、それよりも世間の話題になったのは、斉藤由貴との不倫報道だ。そして、年末には最愛の母が心筋梗塞で急死。彼は失意のまま、6作目のアルバム「放熱への証」の制作に取り組むことになる。

 しかし、亡き母への思いを託した曲も収録されたそのアルバムの発売を彼は見届けることができなかった。92年4月25日、肺気腫で急逝した。

 とまあ、20代の6年間を駆け足で振り返ってみただけでも、18歳プラス2日でデビューしてからの10代の2年間に比べると、生きざまと音楽とのバランスがうまくいっていないことが伝わるだろうか。ただ、スキャンダラスな面が目立ったその6年間も伝説化には寄与した。成功したアーティストがクスリや不倫などで身を持ち崩していくのは珍しくないが、これほど短期間でそういう展開を見せた人は世界的にも珍しい。伝説となるにふさわしい光と影を、彼は8年間で存分に見せつけたのだ。

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