そんな尾崎に、反・管理教育運動を行っていた活動家も注目。「内申書裁判」で世に出て、今は東京の世田谷区長を務める保坂展人だ。当時、若者向けのフリースペースを運営していて、筆者の知り合いがアルバイトをしていた。そこでブレーク前の尾崎と会い「シブがき隊みたいなアイドル、大人たちに操られるだけの人形にはなりたくない」という言葉を聞いたという。

 さらに、所属事務所の社長からは「根性焼きとフォーク・ギターというギャップが気に入ったんだ」と言われたという話もある。前出「未成年のまんまで」によると、やくざに足を突っ込んでいた友達をかばおうとして、自分の手首の甲にタバコの火を押し付け、できたものらしい。

 いわゆる武勇伝だが、ステージでの彼を有名にしたのもそれに近いパフォーマンスだった。前出のライブイベントにおいて、高さ7メートルの照明用やぐらから飛び降り、足を骨折したのだ。

 そんな無鉄砲な性格と音楽の内容とが相乗効果を起こしたことで、尾崎はブレークを果たした。いわば、若者たちのヒーローにできるというスタッフの計算と、英雄志向の強かった彼の精神性とがピタリとかみ合ったのである。

 その象徴が、85年1月のシングル「卒業」。校舎の窓ガラスを壊しまわるという過激な歌詞と、透明感のある美声が新鮮だった。また、本人がメディア露出を抑え、写真についても笑顔のものはなるべく使わないという戦略がそのカリスマ感を高めることになる。

 同年3月に発表されたセカンドアルバム「回帰線」は、シングル含めて初のオリコン1位を達成。全国ツアーやスタジアムライブも成功させ、小説も発表した。同11月にはサードアルバム「壊れた扉から」を発表。二十歳の誕生日の前日、すなわち十代最後の日に発売されたこの作品は、筆者が最も好きな彼のアルバムだ。

 こうして彼は「若者の代弁者」「十代のカリスマ」などと呼ばれ始めるわけだが、20代にさしかかると、迷走のような姿を見せるようになる。

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