幕府の規定によると、辻番には、二万石未満の大名だと昼三人、夜五人、二万石以上だと昼四人、夜六人を置くようになっていた。旗本の場合は、昼二人、夜四人だった。
幕府から辻番設置を命じられた大名は、国元から足軽を呼び寄せ、辻番とした。旗本はそのクラスの家来を出した。しかし、旗本ではなかなか辻番を維持することが難しく、十七世紀後半には請負人に任せるようになった。
■辻番は足軽役
こうして、辻番のある部分は、都市に生活する「日用(にちよう)」と呼ばれる人々が務めるようになった。「日用」とは、「人宿(ひとやど)」と呼ばれる今で言えば人材派遣業者のもとに集まる者たちで、武家奉公人や普請や作事の人夫として派遣される者である。
十八世紀初頭の学者荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、その著書『政談』に、地方の農村から江戸に出てきて武家奉公などを行い、年をとって故郷にも帰れなくなった者が辻番などになっている、と書き、何の役にも立たぬ、と批判している。確かにそういう面はあっただろうが、それでも武家地にこうした施設があれば、それなりに犯罪の抑止力になったと思われる。
幕末の事例によれば、辻番の請負は、一人一年の給金が九両となっている。これはかなりの額である。もっとも、辻番を派遣する人宿がピンハネしていたから、辻番になる者がこれだけの額をもらえたわけではなかろう。ただし、辻番は足軽役だったから、庶民でも刀と脇差の両刀を差して務めた。
辻番は、昼夜ともに交代で務め、番所の戸は開け放ち、常時、受け持ちの地域を巡回した。もし、不審な者や喧嘩をした者がおれば、その者を捕らえ、藩邸の係に連絡し、そこから幕府目付へ知らせる体制をとった。堀にゴミを捨てる者がいればこれを取り締まり、酒に酔って倒れている者は介抱するようにと命じられている。
もし、担当地域に死体があれば、目付に届け、それを晒し、関係者の申し出がなければそれを寺に葬らなければならなかった。江戸時代は、辻斬りでなくても殺人事件は頻発していたし、行き倒れになる者もいたから、これはよくあることだった。