組織に不満があっても、自分や家族の生活を考えれば、そう簡単には辞められない。組織で働く人ならば、誰もが多かれ少なかれ、ストレスを抱えているだろう。それは現代に限ったことではない。江戸の武士も「家格」の上下に泣き笑い、「出世」のために上司にゴマをすり、「利権」をむさぼり、「経費」削減に明け暮れていた。組織の論理に人生を左右されてきたのである。山本博文氏が著した『江戸の組織人』(朝日新書)は、大物老中・田沼意次、名奉行・大岡越前、火付盗賊改・長谷川平蔵などの有名人から無名の同心、御庭番、大奥の女中まで、幕府組織を事細かに検証し、重要な場面で組織人がどう動いたかを記している。本書から一部を抜粋して紹介する(※一部ルビなどは追記)。
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■八百九十九か所の辻番
江戸の町の六割は武家地だった。武家地には、広大な大名屋敷や旗本屋敷があり、大名屋敷では一万坪以上、旗本屋敷でも多くは五百坪から千坪の邸宅だったから、夜ともなると武家地の道は延々と塀が続く寂しい通りだった。
江戸時代初期には、辻斬りが横行した。辻斬りは、刀の切れ味を試すために行ったものと言われるが、戦国の余習がさめやらぬ時期のことだから、人を斬りたいという衝動を持つ者もいたかもしれない。こうしたことから、夜、町を歩くのはたいへん危険だった。
幕府は、寛永六(一六二九)年、庶民が辻斬りに難儀しているため、大名や旗本に辻番(つじばん)という警備施設を設けるよう命じた。辻番は、武家屋敷の周囲に何か所か設けられ、常時戸を開けて辻斬りなどが起こらないよう見張る小屋である。
大名は、単独で一か所ないし数か所を設けて足軽を置き、旗本は単独で設けるのは経済的に厳しいので、近所同士で何家か共同して置いた。こうして、江戸には八百九十九か所の辻番ができた。このうち、大名のものが二百十九、旗本のものが六百八十だという。この数から言えば、一万石程度の大名だと、他と共同して置くこともあったようである。