■母子家庭で平屋のボロ家 サッカーだけが支えだった
喜熨斗は、歌舞伎役者の家系に生まれた。祖父は二代目市川小太夫、その兄つまり喜熨斗にとっての大伯父が初代市川猿翁と八代目市川中車という生粋の役者一家だった。市川小太夫は、1950~60年代には東映、松竹などで100本を超える映画に出演する人気俳優でもあった。
喜熨斗が物心ついた頃には、アナウンサーだった父と母は別居していて、母と2人での暮らしが続いていた。サッカーを始めたのは、父親不在の中で、「何か人とコミュニケーションがとれるものを」と考えた母が園児だった息子を地元のサッカー教室に入れたのがきっかけだった。
喜熨斗が述懐する。
「母子家庭だったので裕福ではなく、みんなの家は水洗トイレなのに、うちはなんで流れないんだろうと真剣に思っていた。そんな平屋のボロ家に友だちを呼ぶことも恥ずかしくてできなかったし。そんな中での自分の存在価値は、サッカーにしかなかった。キャプテンだったし、うまかったし、そのサッカーを奪われたら自分には何もない、という思いが強かったんです」
11歳の冬、喜熨斗をさらにサッカーへと向かわせる出来事が起きる。親戚から臨終間近の祖父の病院に呼び出され、「勝史、おじいちゃんがもうすぐいなくなるから、嘘でもいいから、跡を継ぐと言ってやれ」と言われたのだ。
「子どもながらにそんな嘘は言えないし、言いたくなかったですが、病室に入ったら、祖父を前に『俺、跡を継ぐから、大丈夫だから』と言っていた。でも、その後もサッカーを続け、跡は継いでないわけで、あのときの嘘は、忘れられない。だから、せめてサッカーだけは、フィールドにしっかり足をつけて、情熱と責任をもってやっていこうと強く思ったんです」
喜熨斗少年に大きな影響を与えたのは、大学を卒業し、下石神井小学校に赴任したばかりの教師、石橋博(73)だった。石橋は、2年生だった喜熨斗の担任になると同時に「下石神井サッカー団」の監督に就いた。
石橋が振り返る。
「6年生のときには、喜熨斗中心のチームをつくっていて、全国制覇したチームと区内の学童大会の決勝で戦って、延長の末、勝ったんです。彼は、ゴール勘があって、相手チームから嫌がられるぐらいよく点をとった。なにしろ負けず嫌いで、能力はひとつ抜けていました」
「サッカーの楽しさを教えてくれた」石橋に感化された喜熨斗は、先生になって、同じようにサッカーを教えたいと思うようになる。
都立高校から日体大へと進んだ喜熨斗は、サッカー部に所属しながら、早くも指導者としての経験を積み始める。練馬区内の小学校のサッカー部で監督に就き、弱小チームを区内3位へと導くのだ。卒業後は、都の教員採用試験を受け、工業高校の教員となり、サッカー部の顧問兼監督となった。同時に、関東1部リーグの選手としてプレーしていたから、まさにサッカー漬けの日々だった。