しかし、サッカーをやりながら体育教師として生きていくという喜熨斗の人生プランは、90年代を迎えると転換せざるを得なくなる。日本初のプロリーグ創設の話が急速に進み始めたからだ。

「プロリーグができるとなれば、サッカーにもっと深くかかわりながら稼げるかもしれないし、なにより、日本代表も強くなるかもしれない。自分もなんとか、そのプロの世界に、と思いました。けれども、Jリーグのスタートのときは29歳。やはり選手ではなく、指導者として入るしかないと思った。それでも、学校の先生じゃなくて、本物のサッカーに関われるかもしれない、という可能性がうれしかった」

■自分の主張は曲げたくない 風当たりが強くなる

 いま一度コーチングの勉強が必要だと考えた喜熨斗は、東京大学大学院総合文化研究科の門を叩(たた)いた。専門は、生命環境科学系身体運動科学。修士課程を終えた喜熨斗は、その後、セレッソ大阪のフィジカルコーチなどを経て、02年、浦和レッズのフィジカルコーチに就任する。

 しかし、コーチ人生は、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)とはいかない。

 つまずきは、浦和レッズのオランダ人監督、ハンス・オフトとの衝突だった。

(文中敬称略)(文・一志治夫)

 ※記事の続きは「AERA 2022年5月16日号」でご覧いただけます。

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